こんにちは、森一貴です。
今日、あーと思ったことがあって。
幼稚園生が走り回っていて、その時に知的障害者の方も一緒にいたのだけど、子どもたちは彼らに出会ってすっごく興味深そうにしてた。
でも保育士さんは障害者の方には触れずに、「りょうくん、こっちおいで~」って言ってたんだよね。
子どもたちは、障害者の方を気にしたまま、保育士さんの方へ戻っていっちゃった。
あ~、こういうのを通じて、子どもたちは「ああ、これは見えていないことにすべきことなんだな、触れちゃいけないんだなあ」と思ってしまうんだろうなと思った。

子どもは色んなものごとに興味を持っていて、
花に対しても、先生に対しても、障害者に対しても、同じように、これなんなんだろう?という気持ちを持つんだろうなーと思う。
その時、例えば子どもが花を見ているなら、きっと「りょうくん、何みてるの?」「これなあに?」「コスモスだよ、きれいだねえ。」
そんな会話をするんだろうなあと思うし、
それを通じて「こういうものが『きれい』なんだ」という観念を覚えていくんだろうと思う。

障害者の方だってきっと、同じような会話をしてよいはずで。
「りょうくん、どうしたの?」「あのお兄さん、なんかへんなの。」「そうだね、少しみんなとは違うみたいだね。聞いてみようか?」
そういうやりとりを通じて、きちんと「この人は、しゃべり方が変なだけで、僕たちとおんなじなんだ」って思ってほしいなって思うし、
障害者の方を「触れちゃいけない対象だ」って思わないでほしいなって思う。
子どもたちへの理想の話になっちゃうけど、
もっともっと、どうしたんだろう?って思った時に「どうしたんですか?」って聞けるように育ってほしい。
それは、先生がケガをしているときもそうだし、
障害者の方に出会ったときでもそうだし。
それだけじゃなくて、電車でよぼよぼの高齢者の方に出会った時も、
大丈夫かな?、って思ったなら、「大丈夫ですか?」って聞けるように育ってほしい。

それはつまり、優しくなってほしいとか、そういう話じゃなくって、
自分の感情、「どうしたんだろう?」とか、「大丈夫かな?」とか、
そういう純粋な気持ちにフタをしないで、
自分でその疑問を解決するための行動ができる人になってほしいなということ。
あるいは、「あの人少しおかしいな、こわいな」とか「うわ、この人と関わったら面倒だな」とか、
そういう自分が逃げの方向に流れていきちゃいそうなのを、
きちんと解釈して「こうすれば怖くなくなるなあ」っていうことを考えて、
自分で行動できる人になってほしいということ。

そしてそのはじめの気づきを与えるという視点で、
保育士ってほんとに難しくて、大切な仕事なんだなあ、と思った。

「ああ、疑問は聞いていいんだ」、あるいは「ああ、こういう風に行動していいんだ」っていう理解を与えるのが
保育士という仕事なんだなと。
そして、そういう「保育の重要性」が軽視されている現状に
実感として、ああ、これじゃいけないんだろうなー、という気がしました。

こないだ、TFJのイベントで保育の軽視に疑問を感じている方に出会って、
全く考えていなかったけど、確かに子どもの根源的(になりそう)な観念を形成するのは保育だなあ、なんて思って以来、
なんとなく幼稚園くらいの子どもたちに目線がいくようになった。
色々な身近な大人の言葉は、本当に素直に子どもの中に入り込んでいくから、
保育って高校生に微分積分を教えるよりもっともっと難しいなあ、と思う。
本当は、一瞬一瞬、体や言葉をやりとりしながら、それぞれの保育観に応じて、こう言わなきゃなあ、とか、
そういう振る舞いが求められているように思う。

でも、果たして、一体どれだけの保育士がそんな風に考えよう、と思ったことがあるか、
どれだけ「子どもが好き」という気持ちだけで保育の道に進んでしまうのか、
あるいは、「保育が大事だ」と思っている人々が、どれだけその給料の安さで保育の道を諦めているのかなあ。

今はあまり保育という視点まで当事者意識を持ちきれてはいないのだけど。
もうすこし保育が変わって、いつかあの障害者の方たちが、子どもたちと笑顔でお話できる日がきたらいいなー。

翻って、小学校の教壇に立つ自分への戒めもこめて!