憤りを感じる話し方がある。

それは、一般常識やより強い権力を使って
自分の意見を正論のような顔をして
ねじ込もうとする話し方である。

一番わかりやすいのがこれである。
「だってみんな持ってるじゃん!私にも買ってよ!」
一般的には誰もが親に買ってもらっている。だから私にも買って欲しい。
という言い方。

こういう言い方がもう世の中にはたくさんあって、
「あけた戸は閉めるのが普通でしょう?なんで閉めないんですか」
「そんなことしたら先生に怒られるよ!」
「ゴミ捨てくらいやろうよ。」

いや、俺がわがままだという話じゃなくて。笑




「ふつう・・・」とかっていう

先のいくつかの発言は、
「自分の意見を、一般常識やより強い権力を使って、
正論のように見せかけて説得しようとしている」
のである。

噛み砕いてみてみると、
「あけた戸は閉めるのが普通でしょう?なんで閉めないんですか」

この文章は、
「あけた戸は閉めるのが普通である」という
一般常識(とは俺は思わないけれど)を持ちだして、
「戸は閉めてくださいよ」と言っている。

そのどこに憤りを感じているのかといえば、
彼の発言の「もと」になっているのは、
「戸が開けっ放しになっているのはイヤだなあ」
という、全くもって個人的な感情だ、ということである。

そこには、一般大衆の意見とか言動は、全くもって関係ない。
なんでわざわざ、「普通の人なら閉めるでしょう?」などという、
どうでもいい一般常識を持ち出すのか。
というか、「普通の人」ってなんだよ、と思う。俺は暑かったら、「普通」、あけとくんじゃない?と思うよ。

じゃあなんて言えばいいんだよ、って話で言えば、
「戸、開けっ放しなのイヤだから閉めてくれない?」
これでいいはず。
そこには、個人的な「好きだ」「いやだ」レベルの感情しか発生していないはずなのである。

個人の感情と一般論

ちなみに、その「一般論を持ち出す」ことになぜ憤りを感じるかって、
理由は2つある。
 

一つは、批判から逃げようとするずるさ。

「戸を閉めて欲しい」という要求の原因になっているのは、
「普通は閉めるから」という、「どこかの誰か」の意見である。
だから、こちら側が「暑いときは普通は閉めないかもしれないじゃん」と言ったところで、
批判を受けるのは「どこかの誰か」である。

一方、「開けっ放しは嫌だから閉めてよ」と言った時、
理由を作っているのは、要求をするその人自身である。
「いや、そう感じるのはおかしい。なぜなら暑いからだ」と言った時、
批判を受けるのは、要求をするその人自身である。

つまり、一般的な意見を論拠にするというのは、
簡単にいえば見え透いた責任逃れである。
 

二つ目は、自分の意見を、虎の威を借る狐のごとく押し通そうとする悪意を感じるからである。

私たちは、先の論法を使われると、拒否しづらい。
なぜなら、「正しそうに見える」からである。

「あけた戸は閉めるのが普通でしょう?なんで閉めないんですか」

論拠は、先ほども言ったように、「大衆が作り上げた常識」である。
「戸を閉めるのが普通でしょう?」
いかにも、正しそうに聞こえる。

これを否定するためには、
ただ相手個人を否定するのではなく、「大衆が作り上げた常識」
を否定しなければならない。
だから面倒である。
 

とりわけ、どちらかと言えばマイノリティな考えで生きている人にとって、
より一層この「面倒さ」は大きくなる。

例えば、ニートが彼の母親に
「あなた、まわりのみんなも働いてるのよ!なんで働かないのよ!」
と言われたとする。

まわりのみんなって誰だよ、ロスに行ってみろよみんなあんまし働いてねえよ
(とはいえ彼らは稼げる資産を持っているから、稼いではいるのだけど)
と、ニートの彼は言いたいのだけど、

でもその場においては、一般常識であるとされた「まわりのみんなも働いている」の方が、
きっと「強い」。
彼のいる状況までもが、彼の母親に味方している。

ニートの彼も、別にある軸上で言えば完全に正しいのだろうけど、
言い訳したところで「屁理屈を言うな!」と言われるのが関の山。
 

そういう時は、彼は実質的に、相手の意見を否定することができない。
彼が否定できないように、自分の意見を突き通すために、
彼の母親は彼のいる状況、「働くのがマジョリティである状況」を利用して
彼を押しつぶそうとしているのである。

これが単なる意見で構成されていたらどうだろう?
「ねえ、私、世間体的にあなたが働いてくれないとイヤなんだけど、働いてくれない?」
「イヤ」
単なる自分の意見と意見の交換である。対等だ。

 

やりとりはそうであるべきで、その対等性が、
不当な「一般常識」とやらに食われてしまうことに
強い憤りを感じる。

てか、一般常識を利用して説得されたところで、
「普通、服は脱いだら畳むもんだろ!」
「別にあんたがイヤじゃないなら、普通に従う必要はないんじゃない?」
という話である。

イヤならイヤと言えばいいし、それ以上の理由付けに意味はないよ、
 

と、思っているという話でした。