朝起きてLINEのメッセージを確認する。次にTwitterをふらふらと見て、友だちの昨日の話や誰かのツイートした演奏を見たり、誰かの示唆的な話にうーんと考えこんだりして、facebookを確認して、ふーんくらいのものは読んで、なんとなくぴんと来たものはシェアをして、そうか今の日本にはこんな課題があってこんなことを言っている人がいるのかなんて、なにやらおもしろそうなイベントを見つけてはとりあえず「興味あり」を押しておく。それだけで時間はわりといくらでもつぶせる。3、4時間くらいは些細なもんだなあ、と思う。単純にfacebookに関して言えば、僕は山形と東京を経由して福井に来てしまった上に、(facebook的に言うところの)友だちが増えやすい性分なので、見ようと思えばいつまででも見ていられるくらいには自分のウォールは量感がある。

ここで僕が例えばデジタル断食というか、金持ちセレブの間で流行っている(流行っていた?)デジタルデトックス的な形式でもって、仮にSNS環境から手を離すしたら。僕はその時間で何をやるんだろう?と考えた。あーひまだ、あるいは、なんもやりたくねえ、と思っているからSNSに手を出しているわけなのだけれど、それがなかったら僕は何をするのだろうか?さきほど3、4時間くらいは些細なもんだと発言したけれど、1日という時間間隔のなかで、3、4時間っていうのは些細じゃない。1日8時間寝るとしたら起きているのは16時間なのだから、4時間もSNSに時間を使ったら、生きているうちの1/4は携帯かパソコンをいじっていることになる。だから無駄だ、デジタルデトックスでネットの利用時間を切り詰めろと言ってしまえばそれまでなのだけれど、よく考えれば僕は暇あるいは何もやりたくないから何もしなくてよいためにSNSに身を投じているのであって、そこからSNSを引き剥がしたところで、その時間は寝ているか寝ているのかわからないようなぐるぐるとした時間に消えていくだけなんじゃないだろうか。そうなんだろうか?

昔の人はどうだったんだろう、と思う。昔の人だって暇だったはずだ。ネットがない時代、彼らはどのように「ひましてた」んだろう?僕の場合で言えば、ネットはなくてもそこにゲームがあったから、SNSをやるように空気を吸うようにゲームをしていた。あーひまだポケモン、くらいにはつうといえばかあ(どうでもいいけれどツーとカーの由来ははっきりしていないそう。)の関係でもって僕はなんらかのデジタルに依存していたらしい。ちなみにもう少し昔まで遡ると、僕は暇だと思ったら、絵本を読んだり絵を描いたり、トーマスの線路を家中に作り上げたりしていた。

トーマスってこれね。(これ、トーマス プラレールで検索したら出てきたのだけど、これすごいなあ。鉄道系Youtuberってやつ?これで200万再生って、再生回数を伸ばしたくて頑張っているインディーズバンドが情けなく見える。こんなものばかり見て日本人はバカなんだろうか?と思ったけれど、よく考えるとSNSを見ている僕とあんまり変わりはない。ちなみに一番気になるのは、撮っているのは誰か?というところです。男?なに?彼氏か?彼氏なのか?)

トーマス時代は僕は幼稚園生であったわけなので、僕は気づいたころにはデジタル環境に身をおいていたことになる。あるいは、デジタルのない時代は、みんな絵本を読んだり絵を描いたり、トーマスの線路を家中に作ったりしていたのだろうか?割と的外れな意見ではないような気はする。後者は置いておくにしても、本を読んで絵を描いて暇を潰していたのかもしれない。

 

僕も一応思うところがあってこの記事を書いているわけなので、要するに僕が思うことをそろそろ書きたい。つまり僕が思うのは、何もなかったら、そこにはなんらかの主体的な行動が生まれうるのではないか?ということである。ひまだ、に対して暇つぶしの道具としてのSNSが存在することによって、私たちは無思考的にSNSに逃げることができる。そこにはやりたいことやすべきことは必要なくて、楽に、安易に時間を「過ぎさせる」ことができるような気がする。一方、ネットがなければ、きっと悶々とするのに違いない。そうなれば最終的に、あーひまだ、ひまだ、なんか無いのか、なんか、あー、絵でも描くか、くらいのノリで私たちはアウトプットに目線を向けられる可能性があるんじゃないか。いま、私たちはなんらかの趣味不足に陥っていないか?君は何が趣味なの?読書、映画、音楽(聞くこと・演奏すること)、写真、裁縫、雑貨作り、歴史、鉄道、革小物、釣り、うーん、なにかしら色々あると思うのだけれど、いまどき、読書と映画と音楽、写真以外の趣味は、なかなか耳にしない。趣味は特にないです、ごろごろしてます、っていう人のいかに多いことか、それは僕自身が昔と今で比較できるサンプルを持たないので自分の憶測にすぎないのだけれど、趣味というのは、もっと世にあっていいはずなんじゃないだろうか?すなわち、僕が言いたいのはこれ。「SNSによって、僕たちはなんらかのアウトプット的思考を奪われているのではないか?」

もちろん、Youtuberの謎のアイドルや歌ってみた系の人たち、Instagramのファッショニスタはアウトプット側の人間であることは間違いない。現代では僕たちだってInstagramやvine・snapchatの主体的な担い手としてアウトプットをしているじゃないか!と言われれば、というか、Twitterだってこの短い文字数ではあれ、一つの大喜利の場として利用している人もいて、これだってアウトプットだろ!と言われれば確かにそうなのだけれど、僕が言いたいのはそういうことではないことはきっと理解してもらえると思っていて、YoutuberやInstagramerはいいとしても、僕らは「これといった」アウトプットをしていない、ということを言いたい。趣味はなんですか?Twitterです。へえ〜、で?という話。なんかもっとこう、アウトプット的であったり、探索的であったり、何かしらの深みがもっとありうるはずで(もちろんTwitterに逃避的にではなく主体的に取り組んでいて、α系ツイッタラーとしておもしろいツイートをしてはRTやファボ数を稼いでいるのであれば、それはそれで趣味としてのTwitterでよくて)。

なんというか、もっとネットは暇の代替物じゃなくて、アクションのツールとして存在して良いのではないかと思う。それはもちろん、表現の場としてのYoutubeやInstagramやTwitterでもいいし、リアルな世界で表現するための思索や情報収集の場でもいい。で、単なる日常的な風景や言葉を並べるのは趣味とは言えないと僕は思うから、もっと何かしら、みんなが「これだ」というアウトプットに流れればもっとおもしろいんじゃないかなと思う、という話。というのを、昨日暇だなあと思いながら考えた。なにもしないことは、現代ではとても簡単なのだけど、アウトプットをすれば、もっともっと何かが溜まっていくと思う。ああ、こういうツイートはRTが稼げるなとか、だんだん絵がうまくなってきたなとか、なんかそういう試行と向上みたいなの、いいよね。いいかもしれない。

ちなみにこのブログはアウトプットですか?と言われると、あんまり、そうですね!と自信を持って言える気はない。ここは、僕の思考とほぼ同義だからである。Twitterと同じだ。たまには、わりと読む人を意識して要素を選び、構造化し、多少扇情的な要素を絡めて、その記事のPVが伸びた時、個人的に、あ、これは作品だな、と思う時もあるのだけど、本当はそういう風にやっていくべきなんだろうなあとは思うのだけど。そんなこともあって、僕ももう少しSNSから離れようかな、とか思ったりもする。