こんにちは。
扇情的なタイトルをつけてすみません。僕の話をします。
地方創生、地方活性化、移住支援、市民主役…。地方ブームと呼ばれて久しく、そこら中の地方行政が、新しい言葉を生み出しては「まちづくり」をしはじめるようになりました。
そんな「まちづくり」に対して僕が長い間抱いていた違和感を言語化してみました。
世の中の「まちづくり」って、何なんだろう。
ところで、みなさんは「まちづくり」と聞いて、みなさんはどんなことを思い浮かべますか。僕も少し考えてみると、こんな言葉が浮かんできます。
地域の特産物を活かした特産品づくり、古民家を再生した雑貨屋、カフェ、ゲストハウス、就農や起業、地元起業への就職を応援する移住促進施策、フューチャーセッションやまちづくり会議…。
どうでしょう。ああ、まちづくりだなあ、という字面になりましたね。
今、各地でこうしたまちづくりに関する活動が盛んです。古民家をリノベーションした雑貨屋がうまれ、ものづくりに興味がある人向けのイベントが乱立し、行政は必死になって「まちづくり会議」をしている。
「まちづくり」という違和感
そして、まちづくりがブームを迎えるのと同時に、「まちづくり」に関わってしまった人の中に増えてきた人がいます。それは、
「まちづくりって、なんなんだ?」
という人たちです。僕もそして、ずっとその一人でした。「まちづくり」に興味があるなあ、と思いながら、同時に、「まちづくり」にずっと違和感を持ち続けていた
だいぶ昔の話だけど、僕は学生時代、山形のまちづくりを事例に卒論を書きました。蔵を生かしたカフェを作ったり、暗渠となった堰を復活させたりして、まちに、少しずつではあるけれど、昔ながらの景観が戻ったと。
書いていて、ずっと、なんだか言葉にできない、むずむずする違和感がありました。
なんだろうこれ、なんかおかしいなあ。好き好んで自分でまちづくりを取り上げて卒論を書いてるのに、いやなかんじ、なんかしっくりこない。
その違和感ってなんなんだろうと、ずっと考えていました。最近、それがわかってきたような気がします。
つくられるべき「まち」とは、そもそも何だったのか。
まちづくり、で誰もが想像する、特産品、ものづくり、古民家カフェ、リノベ、移住、企業、農業、その他いろいろ…。うん、わかります。
それによって、観光客や移住者は増え、外貨獲得や、人口の増加、税収増加など、
まちはうるおっていくんでしょう。寂れた古民家はカフェに生まれ変わり、特産品がおしゃれになって各地で売られるようになり、ものづくりの工房を見に、各地から人が集まるようになるのでしょう。
うんうん、まさに「まちづくり」。
あれ、とそこで僕は思ったんです。
ほんとうにそうだっけ。まちづくりって、誰のためにあるんだっけ。そのまちづくりで、まちは幸せになるんだっけ。
「まち」って、なんなんでしょうか。税収が減ったと叫ぶ行政のことでしょうか?それとも、移住者のことなんでしょうか、あるいは観光客のこと?
僕はちがうと思った。
まちに生きてるのは、「まちのひと」なんじゃないかと思った。そして、まちづくりは、「まちのひと」のためのものなんじゃないかなあ、と思った。
まちのひととは、誰なんだろうと考える。
地元の中小工場で外回りの営業してるおじさん、キティちゃんのつっかけを履いたスウェットの金髪ねえちゃん、地元のやんちゃな子どもたちをあやす先生、地方銀行の事務員のお姉さん、家で内職をしている専業主婦のおかあさん、
まちのひとってたぶん、そういう人なんじゃないかなあ。
彼らは、彼らの生活は果たして、古民家がリノベされてシェアハウスになったら何かが変わるんだろうか。オシャレな特産品が東京で売れるようになったら嬉しいんだろうか。移住者が増えると、むかしのお城を再建すると、駅前にモニュメントができると、
彼らは幸せになるんだろうか?
いま世間でいわれてる「まちづくり」のなかに、ふつうの、ふつうのひとは、どこにもいないような気がする。まちづくりの施策、そのどこにも、「まちのひと」のためになるような施策はないように僕には見える。
それが僕の違和感の正体だったんだと気付いた。そして、そんな「まちづくり」はきらいだ、と僕は思った。
「あるべきまちづくり」とは。
いまはなんだか、外側にしか目が向いていないように僕には見える。若い夫婦を増やせ、東京から労働力を呼べ、まちづくりに興味のある人を呼べ。
でも、外側から人を連れてくることは、本当の解決策なんだろうか?
日本自体が人口が減っていっているいま、その内側で奪い合って、他のまちから人を連れてきて、「人口が増えた」「観光客が増えた」なんて、詭弁以外のなんなのか。
そもそも、「勝手に人が減っていってしまう」ようないまの地方に、内側の人が住みたくないと思っているまちに外側から人を呼んで、その人たちは幸せになれるのか?
まちのひとたち自身が、子どもは産みたくない、と思うようなまちに。早くこのまちから出たい、東京にいきたい、と思ってしまうようなまちに。
どうやって移住者は定住するんだろうか?
どうやって移住者は幸せになることができるんだろうか?
だからもう少し、まちづくりが、まちのひとのためのものになったらなあと思う。まちのひとがここで子どもを産みたいなって、生きていて楽しいなって、そこら中で、そんなまちづくりがいっぱい起きたらいいなあ。
地銀の事務員のお姉さんをどうやったら幸せにしてあげられるのか、僕にはわからないけど。でも、まちのひとが幸せに生きられるまちになったら、人口なんて、外側から連れてこなくたって、勝手に内側で増えていくんじゃないのかなあ、と僕は思う。
上勝のいろどりの話
こないだ、まちづくりってもしかしたらこんなものなのかな、って思うことがあったので、もう少し。
徳島県に、上勝町というまちがあります。本当に高齢者ばかりの、とても小さなまちです。その上勝に、株式会社「いろどり」という会社があります。高級料亭などに、季節感を添える「葉っぱ」を提供する会社です。
そのメインの働き手は、おばあちゃんたち。おばあちゃんたちは、山をまわり、木に登り、すいすいと葉っぱを集めている(らしい)。
いろどりは、横石知二さんが上勝でおこした会社(正確には第3セクターが創設者)。上勝にいくらでもある「葉っぱ」に価値を見出した結果、年金をもらうどころか、むしろ税金を納める側にまわっているおばあちゃんが、このまちにはたくさんいる。高齢化がめちゃめちゃ進んでいるにも関わらず、かかっている医療費は県下一少ないらしい。
ばあちゃんの話を聞いてみたいと思って、上勝の農協にいってきました。すだちのにおいのする搾汁所の奥手に、いろどりの「はっぱ」の搬入場所がある。
すると、来るわ来るわ、車にいっぱいの葉っぱを積んで、おばあちゃんたちのバンが次々に農協にやってくる。
忙しそうなおばあちゃんの一人を捕まえて話を聞いてみたら、いろどりを始めてから、全然風邪をひかなくなった。毎日すごく充実してるよ、と破顔した。
87歳だって。信じられない。
まだ全然話してもいないのに、「忙しいから、そろそろいいかい?」と言って、おばあちゃんは笑って去っていった。田舎の87歳のおばあちゃんに、忙しいから、そろそろいいかい?と言われるとは思わなかった。
「外側からは何もないまち」の「本当のまちづくり」
むちゃくちゃだ、とぼくは思った。むちゃくちゃすげえ。むちゃくちゃうらやましい。
上勝は、なんにもないまちでした。車で走っていても、なにもない。最近は移住者も増えて、cafe polestarやRISE&WINなど、おしゃれな店も増えてはきています。でも、なんにもない。車で走って、外側から見てみると、このまちにはなんにもない。
でも、何もないように見えるまちのその内側は、「まちのひと」の生活は、すごく盛り上がっている。ほんとうは、このまちでなかったらゲートボールをしているかもしれなかったばあちゃんたちが、すごく充実そうな顔をして、稼いでいる。
きっと、それがまちづくりってことなんじゃないかなあ、と思った。
本当のまちづくりは、きっと外側には見えない。だって、上勝のまちづくりは、外に見せるために、誰かから評価されるために、外側の人を呼ぶためにやっているんじゃないんだもの。
そして、それでいい。外側から、すごいね、いいね、って言われようが、言われなかろうが、住んでるひとには関係ない。褒められなくても、移住してくれなくても、遊びにきてくれなくても、まちのひとはそこに住んで、生きているんだもの。
その「まちに生きている人たち」がこうして笑顔でいられること、それを「まちづくり」って言うんじゃないんか?
道の駅には、僕には見えない内側にいるおばあちゃんたちの写真集が置いてあった。読みながら、なんかしらんけど泣いてしまった。この人たちは、なんていい顔をして笑うんだろう、と思った。
わかんないけど。「ゲートボールなんて、やる暇もないねえ」と笑ったおばあちゃんの顔、きっとこれがぼくが見たい「まちづくり」のひとつのカタチなんだろうなあ、と僕はなんとなく思ったのです。
いろどりを創設した横石さんの著。
木下斉さんの著は、まちづくりに携わる人は読んでいて当たり前だと僕は思ってる。
どの著も必読。
一番今回のテーマに近いのが山崎亮さん。
外の目線、デザイナーの視点ではなくて、本当の「使う人」とのワークショップを通じて、場をデザインしていく手法を紹介している。
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