僕たちは変わり続けている。

それは、意図的なもの?あるいは僕たちは、無意識のうちに、無抵抗に改造され続けている可能性はないのでしょうか?

デザインが生み出すリデザイン

デザインの歴史を振り返りつつ、人間を再定義しようと試みた「are we human?」という本があります。そのなかで、著者のビアトリス・コロミーナとマーク・ウィグリーはこんな風に言っています。

デザインは常に人間の役に立つものとしてその姿を現すが、その本当の狙いは人間をリ・デザインすることである。

― are we human?

わかりにくい表現なのだけれど、要するに彼は、「私たちは常に何かをデザインし続けていて、その自分たちが生み出したものによって、自分たち自身がリ・デザインされ続けるのだ」ということを言っているようです。

具体的に説明するならば、例えば今の僕たちは、素敵な景色に出会ったとき、「あ、これインスタにあげたいなあ」という思いをいだき、写真を撮る、という行為が当たり前になってきました。

このプロセスをよく見つめてみると、「インスタグラム」という人工物=デザインによって、僕たちは「写真を撮る」という行動を導かれている。つまり、デザイン=僕たちが生み出す人工物には、僕たち自身の行動や思考のプロセスをリデザインする力があるのです。

人間というのはそうやって何かを生み出し、それによって自分たち自身が変わっていく存在だ。人間とはその「多様性と可塑性、つまり自身の能力を変化させる能力によって定義される」と著者は述べています。

この力を自分たちに当てはめてみると、僕たちは日々新たな技術やサービス、プロダクトを生み出すけれど、そんな僕たちの「デザイン」が、どんなふうに他者に新たな行動や新たな思考を導くのか?ということには、常に意識的でいたいなと思わされます。

無抵抗に改造される私たち

しかしこれは同時に、油断すると僕たちは、誰かの手によって操作されてしまいうる、ということをも示しています。

例えば何かを考えているとき、無意識のうちに、あ、この気づきはtwitterに投稿できるかな、どうかな…と考え始めている、ということってありませんか?僕はある。僕の頭はそのとき、思考しながらも同時に140字への編集作業を始めている。それは実際にはアウトプットであって、もはや思考とは呼べないものになってしまっている。

加えて、そのとき頭の中で繰り広げられる「思考らしきもの」の形式すら、多少変化しているように感じていて。僕の思考は、まるでツイート欄に入力するように、文字ベースで頭の中に打ち込まれながら進んでいくようになりました。思考そのものが、twitterでいいね!が少しでも多くもらえそうな表現に形を変えながら、140字に落とし込まれていく。気づけば、140字の外側にあったもしかしたら本質的であった、あるいは拡張しうる部分は削ぎ落とされてしまっている。

このとき、本当の「思考」は僕の中から失われているように思う。本当はそこで、調べてみたり、分析してみたり、自分の経験に照らし合わせてみたり、必要なプロセスがありそうな気がする。僕の頭はそれを理解しながらしかし、それを実行することができない。なぜならば、これ以上の思考は、「140字のツイート欄では処理しきれない」からです。

僕の頭はtwitterによってリデザインされてしまっている。140字になってツイートしおわれば、思考は終わる。本当はあとで見返して、思考を深掘りしようと思っているのだけど、それは永遠の夏休みに課された宿題のように後回しにされて省みられることはない。

そんな風に、僕はtwitterという人工物を通じて、自分自身の「考えるやりかた」自体を改造されてしまった。それはそして無意識に、無抵抗に、あるいは意図すらなしに行われてきた。twitterがなかった時代、僕はどんな風に思考していたのか、想像することはもはや難しい。(もちろん、紙とペンだとか、あるいは言葉も同様に人工物であることを考えれば、思考方法が移り変わっていくことは当然の摂理なのでしょうが。)

それはInstagramも同様で、「どんな風にInstagramに投稿できうるか」を前提の問いとして行き先が決まったり、行動が決まったりしている。Instagramによって、私たちの行動そのものがリデザインされている。逆にいえば、ある種思考そのものがInstagramに奪われている…とも言えるのではないか。

僕らは自分たちの行動も、思考も、いま全て民間企業に委ねつつあることに大真面目に思いを馳せたほうがよいのかもしれない。

それは、単に「SNSに時間を奪われている」だとか、「インスタ映えのために観光地を荒らしてしまう」だとか、そういう「一過性の社会現象」で終わるような話ではないように思う。僕は、僕たち自身の考える基盤である「思考様式」を、彼らによって変容させられているのではないか、と言いたいのです。

SNSに託された人間関係

思考や行動だけではなくて、もしかしたら僕たちは、人間関係すらも、誰かの人工物に委ねてしまっていないでしょうか?

例えば、僕は昔、mixiというSNSを使っていました。確か大学1年生の終わり頃に、それはtwitterやfacebookに取って代わられ、いまやmixiにログインすることはありません(たまに黒歴史を見に行くくらいでしょうか)。結果として何が起きたかといえば、「mixi時代に、mixi上で友達だった人」とは、もう連絡を取り合っていない。

そしていま多くの人が、twitter上だけのコミュニティをもち、facebook上だけのコミュニティをもち、LINEだけのコミュニティをもち、Instagram上だけのコミュニティをもっている。こうしたことは実際に僕のコミュニケーションにも影響を与えていて、facebookでしか(いわゆる)イベントページがたてられないために、LINE上だけの友達、twitter上だけの友達とは、実はどうやって会ったらいいかわからなくなってしまうことがあります。そのうえで、やっぱり会いたい人には連絡するけれど、やはりそこにはコミュニケーションの滑落がうまれる。

こうした人間関係のあり方は、SNSを前提に構築されています。つまりそのSNSを失えば、たぶん失われる人間関係なのです。もちろんポジティブな意味で、人工物たるSNSが社会の中に新たなつながりを生み出してきたことに異論を挟むつもりはありません。けれども、このことはSNSの盛衰によって、自分たちの人間関係が半自動的に切り捨てられてしまうことを意味していないか?つまり、僕たちは人間関係をすら、SNSに委ねているといえないでしょうか?

思考のスタート地点に目を凝らす

もちろん、僕たちは必要だからこそデザインしてきたのであり、選んできたのであり、そして僕たち自身がリデザインされてきたのかもしれない。

けれど同時に、私たちは、うまく理解しえぬ何かによって、自分たち自身に固有で特別であった行動だったり、思考だったり、人間関係だったりの様式を、容易に無抵抗に改造されてしまうことを自覚すべきではないでしょうか。

そしてそれを安易に拒否するのではなく、その現状を受け入れたうえで、私たちの本来の思考様式、行動様式、人間関係の様式について、丁寧に丁寧に問い続けていかなくてはいけない。つまり、何より自分自身で、自分自身をデザインしていかなくてはいけないでしょう。

本来はまず自分自身の様式があり、そのうえに自分たちの実際の思考や行動がうまれ、SNSはあくまでその次に来る、コミュニケーションの「ツール」であるはずです。それを見失いSNSを起点に考えてしまうとき、人工物にリデザインされる僕たちはもはや、単なる人工物に過ぎないのかもしれません。