人間を二種類に分ける話。

人間を二種類に分けると、一層のひとと、二層のひとがいるなあと思う。

自分というものがあったとき、その自分そのもののなかに浮かぶ感情は、人には見えない。けれど、人間はその感情を、なんらかの形で表現として外側に表現する(あるいは、表現しないということを選択する)。

そういう「自分」と、「外側の表現」という二項を考えるとき、自分のなかに浮かんだ感情が、そのまま外側に出てくる人がいるなあ、と感じられる人がいる。それを僕は、「一層のひと」と呼んでいる。

一層のひとは、思ったことがそのまま顔に出てくる。楽しいと思うときは笑顔だし、悲しいときは悲しい顔をしている。緊張しているときは緊張した顔をして、つらいときは泣いている。

僕はそういう一層のひとを見つめて、美しいなあと思う。

 

僕は断然「二層のひと」。二層のひとは、思っていることと、外側に出ている表現は、全然違っていたりする。おもしろくなくても笑い、悲しくなくても悲しい顔をする。頭のなかで全然おもんないなあ、と思いながら、全然普通の顔で、めっちゃ素敵ですね、って言う。

僕の目からみれば、そんなことは当たり前の社会適応のように思うのだけど(別にニヒルさを演じたいわけではないことは強調しておきたい)、意外に、一層のひとにはよく出会う。

僕は一層のひとが羨ましい。

だって、二層のひとなんて、不自然じゃないか。楽しいとき、まっすぐに目の前のひとに、僕が楽しんでいることを伝えたい、信じてほしい。怒っているなら、怒っていると伝えたいし、悲しいときは、悲しいと伝わってほしい。そっちのほうが自然なように僕は思う。もちろん、二層であることはひとつの適応でもあるはずなのだけれど。

一層になりたいと思ってしまったから、僕は”一層のひとらしさ”を演じる。

僕は、頭のなかにいる一層の人のイメージに寄り添って、きっとこういうとき、一層のひとは笑顔になるだろう、こういうとき、一層のひとは泣くだろう、そんなふうに考えながら生きている。

 

思うに僕自身のことを振り返ると、僕は「外側の表現を、まなんできた」という印象が強い。これはちょっと少数派かしら。

ああ、こういうときに、人という生き物は、笑顔になるのだ。怒るのだ。泣くのだ。そうして人を見つめながら、人という生き物の正しさみたいなものを自分にインストールしてきたようにも思う。

昔はたまに、その笑顔、練習してきたんやろ?と言う人もいた。そうだよ、と笑ってみせた。さすがに28年も生きているとだいぶ笑顔も上手になってきて、最近は笑顔を、素敵だと言ってくれる人もいる。

そうやってインストールしてきたからこそ、一層的に表現しない方が合理的であれば、そうする。例えば、悲しいとき。悲しいときに、一層的に表現して、(僕らの目線から見れば)ドラマチックに悲しむ必要なんて全然ない。悲しいときの僕は、特に何も思っていない。悲しい感情を、悲しいと思う必要がないというか、悲しみを表現することをまなぶ必要もなければ、悲しみを外側に表現する必要もないからだ。

そんな二層のひとだからなのか(これはたぶん共感してくれる人も多そうなのだけど)、映画のラストシーンで突然冷めることがある。今日空港から飛び立つ恋人に会いたくて、走っていくシーン。おい、そこで走るな、靴を脱ぐな、すぐタクシーに乗れ。いくら「一層のひと」だって、そんなことするやつはいないだろう。

 

がっつり二項対立にするのはちょっとやりすぎなんだろうなとは思う。この記事は二項対立的に考えるために、便宜上自分自身を一層の対立軸の二層のひととして、やや振り切って記述している側面もある。もちろん、二層のひとだって一層な振る舞いをすることだってあるし(おどろいたときのように)、一層の人だって、先生から理不尽に怒られていたら、内心憤っていても、神妙な顔をしたりする。

でも、そういうことではなくて、一層のひとの笑顔と、二層のひとの笑顔の間には、やっぱり大きな大きな差があるように思う。

 

顔を見るだけで、ああ、この人はいま、とてもとても、しあわせなんだろうなあと思えるような顔。心底安心して、その感情を信じることができる顔。

そんな美しさがほしいなと思う。