知らなくなりたい。

知らなくなりたい。

 

俺が知ってしまったがゆえに果てしなく考えに考えてたどり着いた答えを
知らないのにはじめから知っている人がいる。

僕たちはすぐに自分にとっての嘘をつきつづける。
あー、これやんなきゃなあ。そんなの、ほんとはやらなくていい。
えー、これ行きたくない。でも、行くって返事しちゃったしなあ。じゃあ、行かなければいい。

僕たちは知ってしまう。
知ってしまうと後戻りはできない。いつでも知りつづけるしかない。
とりわけ僕のように馬鹿の一つ覚えのように視野を広げようとしてしまった人は
知ってしまう、いろんなことを知ってしまう。

そうするともうあとには戻れない。
高い場所から降りれなかった時のこと、はじめて塩辛を食べようと勇気を出した時のこと、夕闇に幽霊を見た時のこと、
もうあとには戻れない。

 

知らない人の状態になるためには、自分の中に2つの自分を持つしかない。
すなわち、知っている自分と、そうであることを認識し知らない状態であろうとする自分、
そして知らない状態の方の自分にぐっと近づこうとする。

例えば、考えてみてほしい。
梅干しがある。
私は梅干しが酸っぱいことを知っているから、それをみると「ああ、酸っぱそうだ」と思う。
体は頭に弱いから、すぐにつばが出てきて、ああ、酸っぱいなあと体は感じているんだなあと思う。
その時、私はすでに「知っている」状態でしかいられない。つまり、「これはなんだ?」だった自分に戻ることはできない。
でも、私はそうであること、つまり「知っている状態である」ということを認識していて、
この物体は梅干しなんだ、と物体と名詞とを無意識に結びつけている自分がいること、
この梅干しは経験則から酸っぱいものなのだと、記憶(自分が規定した酸っぱいという概念)と対象とを無意識に結びつけている自分がいる、
ということを意識的に認識している。

だから、私はそうでない状態であろうとすることができる。
つまり、梅干しに対してフラットで「あろうとする試み」をすることができる。
それはどういう状態かというと、
「この物体は、なんなんだろう?」と思うこと。「なんかノリ的にはばあちゃんの額に似てるな」くらいのレベルまで自分の梅干しにたいする状態を戻していこう、とする試みができる。

私は知ってしまった人間だから、すなわち、
全ての事柄について、こうして知っている、からもう三歩、四歩進んで
「知っていることを知っている」状態まで自分を進めることでしか、
知らない状態(に近い状態)になることはできない。

それはなんでもそうだ。
例えば、
怒りという感情だってそうだ。
あるいは、簡単に言えば原発問題について。
原発問題について言われると、僕はもやもやする。
なぜか。
知っているからである。
いろんな論点があることを知っているから、もやもやする。
だから、それを解消するためには、もう一歩先に進まないといけない。
つまり、僕はもやもやしているという状態であることを知る。
次に、そのもやもやしているという状態はどうなれば取り払われるのかということを考える。
ちなみに、このもやもやは、原発に関する情報を知悉して、考えて、私は原発が嫌いだ。理由は、〜だからだ。
まで言えれば解消する。
だから、私が原発問題に相対した時にできるのは、
それだけだということである。つまり、知るしかない。

知らなかったならどうか。
つまり、原発問題について知らなかったら、何かを聞かされても、
そうなんだ、いやだなあ。
そうなんだ、いいじゃん。
それで済む。別に考えて悩む必要はないし、もやもやする必要はない。
俺のように三次段階みたいなところまで進まなくてよくて、
一次段階で感情として判断して、あとは先に進まなくてよい。別にそれを無理に考えるというプロセスを経たからといって、
私と、至るところは同じである。
つまり、「自然である」状態、もやもやがないということ。

私は、考えることを放棄しろといっているわけじゃない。
物事に対して、常にフラットな状態で、本能や直感や、好きや嫌いという感情で判断すべきだと思う、ということ。
好きや嫌いをこえて知ってしまった時、すでに私たちは、自分という枠を離れたところでしか判断することはできない。
それはもはや、判断することに意味はない。これは正しい。正しくない。
そんなことに意味はない。
だから。知らない状態が本気で羨ましいと思っている。

知らない、自分の感情で判断するしかない、
そして人間なんてものは全てそれでいいんである。
うーん、なんか、好き。
以上。
それ以上のことをしたって、何かが変わるわけじゃない。
であれば、別に無理してプロセスを経る必要はない。
なのになぜかみんなつらつらと考えては、「自分にとって間違いな」道を簡単に選ぶ。

「親がこういってるから、一人暮らしはしない」
「みんなが行くっていうから、東京の大学に行く」
「みんなに認められたいから、商社に行く」
で、自分にとって正解なのは、ちなみになんだったんだろうか?

 

言いたいこと、ちょっとは伝わるだろうか。
こんな偏屈な文章を読んでいる皆さんはどうせ
知っている側の人間なのだろうと思う。

そして知っている側の人間にできることは一つだけで、

もっと考える、それだけである。

もやもやしてしまったり、悩んだり、辛かったり、
そんなものは知っているだけの人間の怠けや甘えみたいなもの、
あるいは考えるということを教えない現代日本の教育体制の歪みの具現化である。
だから、私は考える。
悩んでいるなら、私はそれをきちんと認識し考えて解決する。
そうしてやっと、私は知らない人たちと同じスタートラインに近づける。

 

いっそ知らなくなりたいと思う。

知らない状態というのは、感情や本能や直感できちんと判断するということである。

今日もその人を見ては、ああ、知らない状態とはこうなのかと知る。
そしてそれを改めて自分に適用して、ああ、確かにここで僕は知ってしまっていた、と知る。
そして考える。何が僕の「知っている」なのか。考えに考えて、
ああ、こういうことか、こうすれば知らない状態にいけるなあ、と考えに考えて、
そして少しだけ、また「知らない人たち」の方にそっと近づいてみる。

そうやって私は、知った人間として、果てしなく知り続けなければならない人生を歩んでいく。

 

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投稿者:

森 一貴

山形県出身、東京大学教養学部卒。コンサルティング企業にて勤務後、鯖江市ゆるい移住に参加。現在、考える力を伝えるプロジェクト「CUE」代表。