あんまり忙しい時はブログが書きたくなる(いまの俺のこと)。

 

さて、私は今のところ鯖江市に本拠地を置いているのだけど、
実は4月から美浜町の家もお借りしていて、
時々そちらで寝泊まりしている。

その家は去年まで、大家さんのお母さんが一人で住んでいたとのこと。
大家さんのお母さんは、しづ、という。去年の秋口に亡くなった。92歳だったそうだ。

家の中は当時のまま、ほとんど変わらず残されている。
壁には、どこかのデイケアセンターのものらしいプレートがかかっていて、
くぼ しづ、何年何月生まれ、緊急連絡先はどこそこ、などと書かれている。
その隣には、まちの人や友人らの電話番号を記した紙が貼ってある。
これが僕はすごく気に入っている。

家のある麻生という地区は、私たちに苗字のない時代からある古い地区で、
未だにお互いのことを「屋号」で呼び合っている。
壁の紙には、その屋号と、電話番号と几帳面な筆跡で並んでいる。
小左衛門 ××-××××、徳右衛門 ××-××××、とかなんとか。
その文字の羅列は、苗字のない時代の人が受話器を持っているような
不思議に時代錯誤した光景を想起させる。
そして、その整然と屋号と番号とが並んだ紙のなかに、
「ゲートボールの友だち→」とか、「民生委員→」とか、
なんだかしづさんの顔が浮かんでくるようなメモ書きがしてある。
その紙の中で、しづさんの後世が生きているみたいに漂っているような気がして、
とても紙をはがす気にはなれない。

きっとしづさんがずっとここで過ごしていたのであろう、人のにおいのする居間は、
南西にひらけた窓にかかった黄ばんだカーテンをあけると、夕日がよく差し込む。
壁にかかった時計の針は、僕が住み始めた時にはすでに、5時55分のままで止まっていた。
部屋はその時間になると、まるで光の加減を間違えた写真のように
くらくらと夕方の橙色のもやに包まれて、
壁の時計と一緒に、ふつと時間が止まってしまったような気がする。
そんな24歳の僕には止まってさえ見えるような時間を、
92歳のしづさんはここで過ごしたのだと知る。

 

家には、そこかしこにしづさんが残っている。
冷蔵庫の上には、しづ、と刻まれた茶飲みが逆さに置かれている。
シンクの下の戸棚には、もう賞味期限の切れた醤油と、油が残っていた。
油はしづさんが作ったんだろうと思う。油の容器には2014と刻まれている。
油をひいたら、もうもうと鼻をつく煙がたった。僕はそれをシンクにとぼとぼ捨てた。

ある青い空の日に家に伺うと、外に一枚、タオルがかかっていた。
銭湯に持っていくような小さいタオル。大家さんが掃除をしにきてかけていったらしい。
その日は風が強くて、タオルはひらひらと揺れていた。
タオルのはじっこに、しづ、と書かれている。
僕は乾いてかぴかぴになったそれを手にとって、なんだか泣きそうな気持ちになった。

タオルは毛羽だって、黄ばんでいて、古臭くて、乾いてかぴかぴになっていて、
でもしづさんは、そこに間違いなくいるんである。
もう誰もしづさんと話すことはできないし、姿形も残ってなんかいやしないのに、
僕なんてしづさんを見たこともなければ、しづさんと話したこともないのに、
僕はしづさんの部屋で寝て、しづさんのリビングでパソコンをいじり、
今しづさんの古いタオルの中の、しづさんが書いた文字をみている。
そして僕がこうしている限り、しづさんはしとしとと、この家の隅々まで染み渡って、
デイケアのプレートや壁の電話番号や黄ばんだカーテンや茶飲みやタオルの名前や
そうしたいくつかのしづさんの残した何かと一緒に、
いつまでもこの家とともにあり続けるんだろうと思う。

 

僕がこの家に住まなくなったら、この家は取り壊されるのだという。

古い地区のことだ。
放っておけば、家は朽ち、庭は荒れ、
それは苦情となり、猿のたまり場になり、街全体の評判をも下げる。
だから取り壊さなくてはいけない、仕様のないことだとは知っている。

そして僕は悩んでしまう。夕日の差し込む居間で、知らないしづさんの顔を思い浮かべる。