昨日、久しぶりに思い出した。

僕が見たい景色は、道端でおっさんがトランペットを吹いている。そうすると、若者がカホン持ってきて、隣に座って一緒にリズムを叩き始める、ただそれだけの景色だったんだよ。

そこでは、お互いにそれを信頼しあって、それを最高に楽しんで、そこにどんどん、更に人が集まってきて、人がワイワイとその輪の中で、遊んで、踊って、楽しんで、その状況をお互いに尊重して、信頼して、遊びあって。

そういう風景を僕は見たい。ただ、そういう風景を見たいんだよ。

そこには、自由な自分でいていいんだという信頼があって、承認があって、愛がある。そこに、それをやめろなんて言う人はいない。ただ、皆がその状況を楽しんでいる、そしてそれが、その楽しんでいる状況こそが素敵だといって、さらに人が集まる、面白がって楽しんでいる。

そんな状況がどんどんどんどん生まれてくる、そんな社会を僕は見たいんだった、そうだった。

不幸最小化社会と幸福最大化社会

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僕はかつて、不幸最小化社会と幸福最大化社会という概念について考えたことがある。

不幸最小化社会

不幸最小化社会。それは、誰もが不幸にならないことを目指す社会。

誰かが変なことをしていたら、それを見て誰かが嫌がる可能性があるかもしれない、だからその人にやめろという。それをやめさせるその人自体は、別にそれ自体は悪いなんて、そんなに思っていない。そんなにダメだと思っていないんだけれども、誰かが、どこかの知らない誰かがそれを見て、ダメだと思うかもしれないからやめろと言う。

その代わりに、誰も不幸にはならない。

誰かが不幸にならない状況を目指すから、誰かが困るかもしれないから、台風でも荷物は時間通りに届く。誰かが不幸になるかもしれないから、雨の日も雪の日も電車はまじめに定刻を守る。誰かがイヤな気持ちになるかもしれないから、仕事はないけど誰も先に帰らずにちょっとだけ残業時間が増え、誰かが不快にならないように、全員そろうまで誰もビールに口をつけず、誰かの不幸を取り除くために、いつでも24時間、問い合わせ窓口は稼働し続けている。

それが不幸最小化社会。

幸福最大化社会

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一方、幸福最大化社会はそうじゃない。

誰かが幸せになると、それを見て自分が「あ、素敵だな」と思ったら、自分もそれに乗っかればいい。そして、みんなが幸せになっていけばいい。そういう状況が生まれてしまうのが幸福最大化社会だ。

道端で歌っているやつがいたら、気がふれているような気も多少はするんだけど、しかし彼の歌はいい、ならそれだけで嬉しいじゃないか。じゃあ一緒に歌えばいいじゃないか、そこで太鼓を叩けばいいじゃないか、集まって踊ればいいじゃないか、そしたらみんな幸せじゃないか。

誰もその人に冷たい視線なんて投げやしない。だって、それは幸せなんだから。

もしかしたら、それが大きい音が出てうるさいかもしれないけど。でも、その代わりにみんなが幸せになれるなら、その状況の中で100人が幸せになれば、きっとそれで不幸になってしまった1人の人を救えるかもしれない、救えばいいじゃないか。

100人幸せになったなら、その100人が100円出せば1万円じゃないか、それでうるさいと感じてしまった彼にビールを贈ってあげればいいじゃないか、それはまたそれでおもしろいじゃないか、ああ、幸せだなあ!!素敵だなあ!!

それが幸福最大化社会だよ。

ニッポンの不幸

もうこの記事を読んでいる皆さんはお気づきだと思うけど。

僕は、日本は不幸最小化社会だと思っている。

誰もが傷つかないように、誰かが代わりに気を遣ってあげる。あるいは、誰も傷つかないように、自分が少しだけ不幸になっておく。

そして、出る杭はいなくなる。誰もが変なことをしない状況が生まれていく。誰もが無難な状況で生きていくことが強制される。この状態では誰も変なことをしようと思えない、することができない。道端で歌いだす。疲れたから道に寝転がる。ちょっとあったかいから、外に机を出して、一緒にお酒を飲もうよ、そんな光景が絶対に生まれようもない社会になっている。

それが日本のつまらなさであって、僕が息苦しいと感じている点であって、それが僕の不幸だ。

僕はそこで歌いたいんだと、そこでギターを持って歌いたいんだと思っているし、道端にこたつを出して酒を呑んでいたら、道行く人がなんかちょっと暇だから、じゃあ一緒に酒でも飲んで行こうかなとか、そんな景色を僕は望んでいるのであって、それがない社会、そんなことができない社会はおかしいと僕は思う。

だってそっちの方が、自由じゃないか、だって君が思ったんでしょう?そこで歌いたい、と、なんでそれを自分自身で妨げなくてはいけないのか、他人の目線ベースで誰かが嫌がるかもしれないと思ってやめなくてはいけないのか?

そんなのはおかしいんだよ。

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例えば新宿の目の前で新宿駅で弾き語りをしている。警察が止めに入る。その警察が止める理由はなんだと、よくストリートミュージシャンが聞いている。でも、別に個人的な理由なんてない、ただそういう制度なんだと。そういうルールなんだと、彼らは言う。

誰もそれをうるさいとは、まだ言ってないじゃないか。新宿駅前なんて、誰もそこに住んでる人はいないよ、そこにいるのは通りすがる人と待ち合わせしている人だけじゃないか。

そこにもし確かに人だかりができて、邪魔になったら、そこで止めればいいじゃないか。なのにそういったこともないのに、ただそこで歌をうたっている、だからやめなさいなんて。そんな、そんなことがあっていいんだろうか?そんなのはおかしいじゃないか。

なんなら新宿の駅前を管轄する警察官のみなさんこそ、いつもそうやって人を取り締まってばかりいる、そんな日々、つまらないんでしょう?一緒に歌おうよ、踊ろうよ、そういう状況をどんどんどんどん作っていくってことは、僕たちだってできるじゃないかと僕は思う。

そのことができない社会は僕は不幸だと思うし、僕が望んでいる社会はそうじゃなくて、警察官が一緒に踊っていて、でももちろん何かが起きてしまった時はそん時に警察官が対応すればいいし、要するにそのときそのときで、きちんと楽しんでいればいいじゃないか。

本当にストリートミュージシャンが悪かったのか、悪くなかったのか、そんなことも考えないで、ただマニュアル通り、制度通り、誰かが、かつてイヤだと言ったから、あるいは誰かが嫌がるかもしれないから、止める。

そんな社会で本当に人が幸せになれるんだろうか?

来年が来るよ

年末になりました。明後日から新しい年が始まります。

改めて僕が思い出した事は、僕が望んでいたのは、そういう自由な、幸せで、認め合って、自分の好きなように生きていったら、幸せになれる場所。自分の幸せが、人の幸せにつながっているような状況が生まれる、そういうような場所を作りたい。そういう文化をつくりたい。

それが僕のただ一つの簡単な望みなんだなあ。

僕はただずっとニヤニヤしていたいだけなんだって思うんだ。僕はここで歌を歌いたい。そこに誰かが、知らない人でもいいんだ、ってか知らない人のほうが面白いんだよ。そしてそういう人が集まってきて、なんかいい感じに握手して、

ああ、今日すげーいいセッションだったね

って言って、また帰っていって、いつかその2人がまた再会して演奏していたら、また知らない人たちが集まってきて、キミ、いい演奏するじゃん。ウチのバーで歌ってくれよ。なんて。そういった奇跡が、偶然の一期一会が、規定されていなかった何かが、新しい何かが、どんどんどんどん生まれて、みんなが面白い、幸せだなと、にやにやして、その偶然の出会い、偶然のハプニングがどんどん生まれていくような、そんなセレンディピティがたくさんたくさん、それを僕は求めている。

昨日しゃべっていて、そんなことを思い出しました。僕はもちろん、やりたいと今規定していることは、教育だったりなんだったり色々あるけど、それはひとつのツールに過ぎなかった。

要するに僕は日々をただ幸せに、自由に、幸せになりたいときに幸せになれる自分でいたいと思っている。その状況をつくりたいと、つまり全員がニヤニヤできるような場所をどこかで作れないかって思ってるんだ。

もちろん、人はじゃ外国に行けばって言うのかもしれない、ニューオーリンズに行けばいいんじゃない、キューバに、ポートランドに行けばいいんじゃないって、でもそうじゃないと思うんだよね。そうじゃない。それでもいいのかもしれないけど。

僕はここで幸せになりたい。ここには僕の友達もいて、そいつらがなんかいいねって、最近楽しいって言ってくれるような、俺ちょっとこないだからギター始めたからちょっと歌おうよって、道端で一緒に歌って、楽しんでたら、なんかおまえら、いいね!って人が集まって来るような、そういう、広がり、好奇心、可能性、輪が広がって、ぶつかって、生まれて。

それぞれのコミュニティそれぞれの輪が、完結した閉じた社会で終わっていくような人生じゃなくて。なにかふつふつと新しい何かがくっついては新しいものが生まれていくような、そういう社会を作りたいんだよ。

にやにやしようよ!

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そんな難しいことじゃないと思うんだよ。

だって面白いもの見たら面白いって思うじゃない。いいもの見たらいいものいいな!って、楽しいな!って思うじゃない。その音楽を聴いて、例えば子供がそこで、ジャンプしたり、笑顔でいたりしたら、それだけでその場はきっと幸せになるじゃない。

それって、そんな難しいことじゃないと思うんだよね。

僕はただそれを作りたいだけ、そういう場を作りたいだけ。

こんな話、もちろん全然金には結びつかない話で、つい忘れてしまってた。でも、僕がそもそも求めていたのはこんな景色だったんだよなあ、年末に寄せて。

んじゃ、良いお年を!