世の中はわりと、きちんとフラクタルっぽくできているなあと思ってます。お勉強についてたらたら書きますが、今日は特に結論はありません。

 

もっともっと(教えなくてはいけないところについては)教え方を最適化して、広げたい。
(しかし、そこは俺の役目だとは思っていないのだけど)
指導要領がある以上、どうせどこでも教えていることは一緒なんだから。もっとマニュアルがあっていいし、生徒のパターンに応じた対応、教え方みたいなものがあっていいんじゃないか。

毎年毎年、先生が新たに、科目の教え方に悩んでいる。そんな非効率的なことがあるか。ほんとは、そんなことはありえない。一体この世に何人の先生や塾講師がいると思っているのか。(そのためのSENSEI NOTEか)

目線をひとつあげてみる。

そしてそのときの目線(身につけるべき能力という意味)は、生徒にとって教科の個別的な目線ではなく、もっと総合的な全体把握力とか、論理的思考力とか、そういうところに目線が向くべきなのではないかな…。

先生が「公式を暗記して適用しろ」なんて、口が裂けてもいっちゃいけない、それは何よりも意味がないことで、ただの物言わぬ作業者を生み出すだけ、「AIにとって変わられ」ておしまいの社会を生み出すだけ。

なんでそうなるのか、何がおもしろいのか、どんな切り口でみるべきなのか、この単元からどんな社会が生まれていくのか、、、単に数学のための数学をやるんじゃなくて、生きるための数学をやりたいものだなあ。楽しいし。

国語も数学も英語も全部いっしょ。

「数学が得意なのに国語が嫌いな子」がいる。
あるいは、「国語が得意なのに数学が嫌いな子」がいる。
最近思うのは、それはおかしい、ということ。

それは何かしら先生が彼にとって適合しないところがあったからで(この「先生」というありかたの属人性って、もうちょっとなんとかなったりしないんだろうか…。先生との出会いによって子どもの未来が全く変わってしまう。その教科が得意になるかどうか、はもちろんのこと…)、国語も数学もアプローチは全く同じ。単純にその言語が、文章なのか図式なのかということだけ。

(センターの国語の試験なんて、改めて今の目線で見てみると超システマチックで、昔は「なんでこれが間違いなんだよ〜!!」とよくキレていたけど、今見るとなぜ間違うのかがわからないくらい。)

俺から言わせると、国語も英語も数学と同じで(あんまり理解してもらえない)、それぞれが単独でできないということは、単純に「嫌い」が先行した理解・勉強・忍耐不足なだけだと思う。

フラクタルな社会

俺が教える子は、数学だけをやっていてもすぐに英語にも適応できるようになる(ように教えていたい)。

俺は常に(「お勉強」的には!)全体像を把握すること、構造的に理解すること、できるだけ論理的に考えようとすること、をなるべく重視しています。
まだまだ、「それをじゃあどう英語に(自分だけの力で)適用するの?」というところまでは至れてないのが悔しいところだけど、英語でもその「目線」を適切に教えてさえあげれば、「あ、じゃあ数学と同じじゃん」と思ってばんばん解いていってもらえる。

ちなみに俺はこうして「数学のための数学」ではない全体把握能力とかを大事にしたいなという思いで近年生きてきたので、最近線形代数の本を読んで「数学と人生」の相似性にうちふるえました。
なんというか、この世は全体的にフラクタルだよねとずっと思ってる。どのサイズ感で見ても、どんな切り口で見ても、結局わりかし同じなんじゃないかなーという気がしている(高校の頃にそんな小説を書いた、原子も惑星も僕と君も同じだみたいな小説でした。みんなくるくる回っている。)

なんの話かというと、みんなほんとは素敵でサイコーなんだよ、みんな人生楽しんでくれ、っていう話です。

そろそろ仕事に戻ります。