なぜ人は、話を二元論に落とし込みたがるんだろう?、と思う。

こんなことを、二元論の権化みたいな俺が語るのは
ちゃんちゃらおかしいような気もするのだけれど。

(二元論というのは、ある問題を、対立する2つの要素に分けて論じようとすること。簡単に言えば、このブログみたいな語り口調のこと。)
 

さて、先に質問を投げかけておきます。
みなさんは、沖縄の基地問題について、どう考えますか。

辺野古基地移設について。
みなさんは、移設に賛成ですか?それとも、反対?
あるいは、日本に米軍基地が存在すること自体に反対でしょうか。
 

こないだ、ある映画を見ました。
「人魚に会える日。」
慶応大学の仲村颯悟が仲間たちとともに自主制作した、
辺野古基地移設問題に関わる映画です。

私はそれを見て、率直に言えば「恥ずかしい」と思いました。
自分の安易な考え方に。安易に二元論に逃げ込もうとする、その安易な精神性に。
仲村颯悟は、その映画を「沖縄のリアルだ」と言う。
確かにそうなんだろうと思う。
 

そこに描かれていたことを概観するならば、
基地移設の問題は「賛成」か「反対」か、
当事者にとっては、そういう次元の話ではない、というのでした。

それはつまりどういうことかと言えば、
基地は、あまりに沖縄の生活なのだ、ということなのである。
道端で、普通に米兵とすれ違う。
空では戦闘機の轟音がなっていて、
そうして親が基地で働いている。

それは、自然破壊がどうだとか、アメリカと日本の政治がどうだとか、
そういう誰かの目線で切り取られた場所で語られる「賛成」や「反対」とは、
まったくちがう「生活」がありうるんだ、ということを意味している。
 

もはや「賛成」や「反対」という言葉すら、
たぶんそこでは、無意味なのだろうと思う。
私たちが基地移設問題を語るとき、
その複雑に絡みあったひとつひとつの大事な何かを無視して
安易に「日本の独立を取り戻すんだ」などと言おうとするのであれば。
それは沖縄にいる彼らにとっては、一番「本質からはずれた」言葉なのに違いない。

 

そういう意味で、「人魚に会える日。」は、
もしかしたら二元論的な立場に対する、ひとつのアンチテーゼなのかもしれない。

下記のインタビューの中でも、仲村颯悟はこう言っている。
「僕の中では、たまたま舞台が沖縄だったから基地問題が出てきただけで、それで完結するものではありません。例えば、アマゾンのプランテーションとかで森を切り崩す人間にも置き換えられます。地球上のあちこちの土地に置き換えられる話かなと思っています」

―これも沖縄のリアルだ。映画「人魚に会える日。」の仲村颯悟監督に聞く
http://www.okinawatimes.co.jp/cross/?id=379

これがきっと、この映画がとりたかった「態度」なんだろうなあ、と、
僕はそう思う。
 

確かに二元論は、わかりやすい。実に。
つまりそれは、楽なのである。
だから僕たちは、早く二項にわけたがる。
賛成か反対か、男と女、精神と肉体、なにかしら、いろいろなもの。

でも、それはきっと、何かを見えなくしてしまうことと、
もしかしたら同義なんだろうと思う。
僕たちが二項にわけた、そのなにかとなにかは、
どちらでもある時だって、どちらでもない時だって、常に可能性はそこにあるんだろう。