味真野。あじまの。アジマノ。不思議な響きだ。その文字列は見た者を自然に惹き込む艶容さをまとっている。
味真野。濁点の持つざらついた、滾るような芳香。しかしその輪郭は、うすいカーテンの向こうのように曖昧だ。それは味真野が「天(アマ)」、「アノニマス」のような、正体の見えない、畏怖の象徴が持つ音を伴っていることと無関係ではないだろう。
その結果、味真野は、まるで魔性の女のような色をして僕たちに相対する。なんとなく引っかかる、なんとなく気になって、そして、いつの間にか溺れているような。
「そういえばさあ、味真野って好きなんだよな…音がさ。ところで、味真野って何?」
味真野は、かつて越前国府が置かれた越前市の東部、仁愛大学のそばに位置する、歴史ある街だ。あたりには城跡・神社や、万葉の里・味真野苑など歴史を伝える施設があるほか、鋳物師や和紙職人の集積がみられ、往時が偲ばれる。
(ふくいドットコム http://www.fuku-e.com/010_spot/index.php?id=520)
そこは、今立・河和田の歴史をつむいだ「継体天皇」が、即位前の時期を過ごしたまち。世阿弥が書いた謡曲「花筐(はながたみ)」の舞台となったまち。738年ころ、中臣宅守(なかとみのやかもり)が狭野茅上娘子(さののちがみのおとめ)との禁じられた恋路の果て、この地に流され、万葉の歌を詠んだまち。万葉集には、二人が交わした63首の贈答歌が収められている。
「あぢま野に 宿れる君が 帰り来む 時の迎へを 何時とか待たむ」
国道から離れた山裾の小さなまち。しかし、そこでこうした歴史が紡がれたのは偶然ではないだろう。
味真野とはなにか。地図に語源をたずねて
さて、その妖艶な「あじまの」とは、一体何を意味する言葉なのか?
語源を調べるていと、「あじ」は「悪し」が転じたもの、という記述が見つかる。正式な出典はないものの、興味深い。(http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55747777.html)
味真野は、文室川(浅水川)の扇状地に成立した小さな村だ。文室川(味真野町左側)・治左川(味真野町右側)とに挟まれ、更に文室川の豊富で美しい伏流水もある。水に恵まれた、農地にはうってつけの場所だ。
さて、その味真野の、一体どこが「悪し」だというのか。もし仮に「悪し」なのだとしたら、一体どのように「悪し」なのだろうか?
もちろん、我々は事実を知ることはできない。しかし、我々はその真実に近づくためのコンパスを持っている。それが、「地図」である。
今日は味真野の「悪し」をめぐる「地図」の旅に出てみよう。浮世はかくも広く、そしておもしろい。
味真野は「悪し」か?地図に耳を傾ける。
味真野の地図を眺めてみよう。
実は、味真野の地図には、味真野が「味=悪し」かどうかを知るための「ヒント」がたくさん転がっている。今回は、味真野が「悪し」かどうかを示唆する、3つのヒントを取り上げる。3つのヒントとは、以下のとおりだ。
ひとつめのヒントは、「山に登る川」。
ふたつめのヒントは、「空気を読めない道路」。
みっつめのヒントは、「家々が描く謎のライン」。
これらのヒントを一本の線に繋げると見えてくるものは、一体、何か?
山に登る川。
味真野の「悪し」を探るひとつめのヒントは、「山に登る川」だ。
上記は、味真野を含む越前市の地図である。治左川の流路を見てほしい。地図右側(東側)から流れてきた治左川は、味真野のまちにぶつかり、そこで右にそれ、鯖江市戸口方面へと流路を変える。治左川はそのまま三里山の右側をまわり、浅水川・日野川と合流する。
この違和感が分かるだろうか?
水は、高いところから低いところに流れる。誰もが知っている常識である。そして、地図の東側は「山」である。では、治左川は、どちらへ流れるべきだろうか?
そう、答えは地図に既に記したとおり、点線の方に流れるのが自然なはずである。
ところが、治左川はわざわざ山の方へ向かっている。地形図をつぶさに眺めると、下るどころか、むしろ標高の高い方へ川が進んでいることが分かる。(登っている、というのは言い過ぎだろうか?)
これが味真野が「悪し」かどうかを示す1つ目のヒントだ。山を登る川。これは、一体なにを意味しているのだろうか?
空気を読めない道路。
味真野の「悪し」を探る二つ目のヒントは、「空気を読めない道路」だ。
さて、先ほどの味真野の地図を眺めてみると、明らかにおかしい、「空気を読めていない」ラインが見える。地図上に示したのがそのラインである。
これが、あきらかに「ヘン」なのがわかるだろうか。
まちは多くの場合、道に沿って広がっていく。だからふつう、目立つライン(=道)があったら、そのまわりには「まち」があるはずなのだ。
逆に言えば「空気が読めない」道は、見ればすぐにわかる。例えば、新しくできたバイパスなどがそうだ。まわりに民家がないから「浮いて」いるようにみえる。
さて、今回示したラインは、たしかに「空気が読めていない」。もう少し広い視点で眺めてみると、その不自然さは明白だ。
しかも、この空気が読めていないラインは、屈曲部(レンゴーのあたり)より東側はきちんと道路が整備されているが、西側はなんと細い農道になっている。車で走るのは難しそうだ。
そんな「道路にもならない道路」が、田んぼの区画をぶつ切りにしながら、地図上に、しかも延々と、明確に刻まれている。
これはどう考えても不自然だ。あまりに空気が読めていない。屈曲部より西側には、「何かがある」のだ。
これが味真野が「悪し」かどうかを示す2つ目のヒントだ。空気を読めない道路。これは、一体なにを意味しているのだろうか?
家々が描く謎のライン
味真野の「悪し」を巡る最後のヒントは、家々が描く謎のラインだ。
上図を見てほしい。上下に並んでいるのは、味真野の地図と、そこに「謎のライン」を追加した地図だ。交互に眺めると、赤いラインと灰色のラインが見えてくるのがわかるだろうか?
灰色の線が一体なんなのか気になるところだが、今回着目してほしいのは「赤」のラインである。
このラインは、なぜか、たしかに、そこにある。でも、その線の上には、別に道路があるわけでもない。そのライン上に建てたら、呪われるなんて噂があるのだろうか…?
これが味真野が「悪し」かどうかを探る3つ目のヒントだ。家々が描く謎のラインは、一体なにを意味するのだろうか?
点を繋げる。地図が語る味真野の「味」
ここまで、味真野を巡る3つのヒントを観察してきた。「山を登る治左川」。「空気を読めない道路」。「家々が描く謎のライン」。これらを繋げていくと、見えてくるものがある。
それは「治左川が、味真野のまちなかを通っていた」という仮説だ。
ひとつひとつ、解き明かしていこう。まず、家々の謎のラインと、空気を読めない道路に着目する。2つのヒントで示された「ライン」を、治左川の不自然な屈曲点から繋げてみよう。家々が描く謎のラインから、空気を読めない道路へと、ラインが気持ち悪いほど自然につながることが、わかるだろうか。
そう。当時、治左川は東部から西部へと、上図のような流路で流れていた河川であったのだ。道路があまりに「空気を読めていな」かったのも、これでうなずけるだろう。だって、そこは元々河川だったのだ。河川は、空気を読まない。
こうして「治左川が味真野のまちなかを通っていた」という仮説がうまれる。
更に、もう一つ読み取れる重要な事実は「治左川が、暴れ川だった」ということである。「家々が描く謎のライン」を再度思い出してほしい。赤線が複数見られたはずだ。これが示すのは、味真野のまちを通る治左川が、まちのなかで「何度も小規模に氾濫し、流路がたびたび変わった」という仮説である。そしてそのたびに、村の人々は辟易したに違いない。
これだ。その治左川の氾濫が、味真野の「悪し」の正体だ。味真野は確かに「悪し」場所だったのである。
もちろん、味真野の人々も、その氾濫をただ指を加えて見ていたわけではない。彼らは「川を山へ登らせた」のだ。すなわち、地図から読み取れるのは「歴史の中で、治左川の流路変更工事が行われた」という仮説である。
本来ならば北西方向へ進んでいたはずの治左川。それを護岸工事によって流路を変え、戸口の方へ水を逃したのである。それが、1つめのヒントが示す「山へ登る治左川」の正体なのだ。
こうした大規模な流路変更・護岸工事により、やっと味真野は平穏を取り戻したのである。
治左川・浅水川の流路変更
実は地図を見ると、治左川・文室川(浅水川)ともに、明らかに流路変更が行われた形跡がある。広範囲な色別標高図を見れば、一目瞭然だ。
治左川は先ほどの通り、三里山の東側へと流路変更が行われている。また、浅水川も同様に流路変更が行われている。証拠は、川が山に食い込んでいる部分。川は、こんな風に流れることはありえない。
もう一つ付け加えると、かつて浅水川は、治左川と合流したのち、現在の8号沿いを浅水町(ハーモニーホール)方面へ北上していたはずだ。しかし、ハーモニーホール周辺には起伏がない。その結果、ハーモニーホール周辺は、鯖江市鳥羽〜ベルのあたりまで川の氾濫が度々起こり、広く低湿な土地となっていたに違いない。
三十八社町や浅水町が、山に張り付くように家並みを連ねているのもそのためだと推察できる。(浅水川が流れていないのに「浅水町」という町名がついているのも、このあたりが由来なのだろう。)
現在の浅水川(・治左川)は見ての通り、鯖江市と福井市の境界あたりで、8号を横切って日野川へと流れている。この直線的かつ丘をこえる流れ方は、ここでも大規模に流路変更が行われたことを示している。
味真野の名前の由来は。
(北陸・信越観光ナビ http://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/spot/article.php?id=SPOT0000001191)
総括しよう。
味真野は、かつては治左川の小規模な氾濫が続く、確かに「悪し」場所であった。治左川と、文室川。2つの川に挟まれた「間」にある、悪し平野。
それが「悪し間野」。
これが味真野の由来なのだ。浅水と治左に挟まれた、水に恵まれたまちは、同時に氾濫の起こりやすい場所でもあった。そんな多様性が深い歴史や魅力となって、味真野に根を下ろしているのだろう。
味真野。あじまの。アジマノ。不思議な響きだ。その文字列は見た者を自然に惹き込む艶容さをまとっている。それは決して、偶然ではないのだろう。
「地図」という果てなきミステリ
河川の歴史は、図書館にいって旧地形図と比較すればすぐにわかることも多い。今回の例も、新旧の地図を比べれば、流路変更の歴史など、簡単に紐解けることに違いない。
しかし、地図上にいつでも、ミステリの一回目の事件は転がっているのだ。そして、答えの糸口も。すぐに答えがわかってしまってはつまらない。自分で探すのが楽しいんじゃないか。聞いてみよう、地図の声を。彼らは実に雄弁で、頼もしく、そして魅惑的だ。
今回の記事はすべて「仮説」である。本当ははじめから治左川は山の方へ流れていたのかもしれないし、味真野は「美味しいものがいっぱいある」という意味なのかもしれない。でもそれは、どちらでもいいのだ。これは正しいことが大事なのではないし、調べてわかることが美しいのでもない。探求自体が最高のエンターテイメントであり、だから僕はこの記事を書いているのだ。
今回はgooglemapに加え、地理院地図を利用している。基本的な地形図に加え、色別標高図など、様々な種類の地図を重ねて表示できる。ぜひこんなリソースがあるということも、広まってほしいと思う。
https://maps.gsi.go.jp/
地図のなかに転がる、歴史をつなぐ糸口。これを紐解いていくのは、とてもエキサイティングで魅力的だ。地図はまるで、果てのないミステリ小説のよう。それは味真野のようだ、甘美で、妖艶な魅力。
そう。これが私が学んできた「地理」の喜びである。
では、また。
東京スリバチ学会会長の「皆川典久」による著作。東京は、スリバチというファンタジーの宝庫。スリバチ上の図形が織りなす、まるでハリーポッターかなにかのような彩り、夢、旅、それはファンタジーである。
本書を手に東京を歩けば、いままで気づくことのなかった東京の奥深い魅力に気づくだろう。表面に見えている以上に、東京は深く、最高に魅力的な町なのだ。
またこれは、東京のための本ではない。本書を読み終えれば、それがどこであろうと、日々のまちの景色が一変することに気づくだろう。これまで気にもとめていなかった地図に、地面に、標高差に、最高の「ストーリー」がそこに隠れていることに気づくだろう。
タモリとゆく「ブラタモリ」。タモリの視点は更に広い。地理的視点だけでなく、歴史的な結びつきも十分に解釈した上でブラブラしている。単なる散歩ではない。スペースマウンテンに匹敵する、これはエンターテイメントショーである。
坂道は、最高だ。