ずっと心に引っかかっていることがある。

それはいま、僕らが「社会」や「教育」に見ている正しさの夢は、本当にそれでいいのだろうか、ということ。

 

秋田に、五城目というまちがある。秋田市にほど近い、小さな小さなまち。しかし実は、日本の教育業界の耳目を集める、不思議なまちだ。

「シェアビレッジ」や「おこめつ部」、国際アントレプレナーシップ教育を展開する「ハバタク」。あるいは、まちづくりワークショップ「こどものまち」や、こどもが自分で朝市に出店する「キッズクリエイティブマーケット」を展開する「G-experience」。ここから、ワクワクする取り組みが次々に生まれ、ホームスクーリングなど、新たな教育のあり方も提案し始めている。(G-experience・松浦さんの記事:子どもが朝市に出店? 松浦真さん・智子さんが展開する 教育プログラム 秋田そだち Vol.3  

元々五城目は地域おこし協力隊が、昔から楽しそうに取り組みを続けているのを知っていたのもあり、ずっと興味があった。

去年の夏の暮れ、偶然にそんな教育ベンチャーが集う五城目町の「BABAME BASE」に訪れる機会を得て、みなさんとお話することができた。平日にも関わらず、皆さんには3時間ほどもお時間を頂戴してしまった(大変ありがとうございました)。

「教育者は、正解を定義してよいのか?」

そこで話をするなかで、2つ心に残っていることがある。

ひとつは「今時、探究型学習塾って安直な解決策なのではないか」と問われてタジタジになったこと。そしてもうひとつ。ずっと心に引っかかっているのが、こんな問いだ。

 

「教育者は、正解を定義してよいのか?」

 

これまで僕たちは、既存の教育制度に強く変革を求めてきた。僕たちはいわゆる知識つめこみ型学習に対して限界(あるいは無意味さ)を感じ、これからは「与えられた問題にこたえる」能力ではなく、思考力・判断力・活用力を重視し、これからの時代を自分自身で創っていける力を伸ばしてほしい、そんな潮流を作って欲しい、と声をあげてきた。

それが当然だと思っていて、だから僕は「自分で楽しい未来を創る」人を増やすというビジョンを掲げ、だから僕はハルキャンパスを立ち上げたのであり、

だからこそそんな僕に、その問いは刺さった。

 

僕たちは「正解のある教育」を変革するために、メジャーな価値軸上において『正しいとされる方向へ』歪められてしまう生徒をなんとか救うために、新たな教育制度を作り出そうとしていたはずだった。

けれど、その僕たちがしたことは、あるいは、「思考・判断・活用能力を持つ、これからの時代を自分自身で創っていける力を持つ人材」が「正しい」子どもだという、単なる「正解のすり替え」にすぎなかったのではないか?そう、これからも「正しい生徒」、という仕組みは残りつづける。僕らは、その答えを変えただけだ。

 

「多様な社会問題に自分なりの意見を持ち、率先して行動し、集団をエンパワメントしながら変革を導く」生徒。
そうだ、きみが正しい子どもだ!!

 

これからの教育では、従来型の教育で「正しかった」生徒は否定され、自己肯定感を失うのだろう、単に勉強ができるだけでは無意味だ、集団に貢献しないのでは価値がない、

僕たちは、そういう教育を目指していたんだったっけ?

「新型正解」を押しつける僕たち

僕たちが目指していたのは、そうじゃない。

僕たちが目指していたのは、正解のない世界の実現だ。あるいは別の言葉で言い換えるならば、「誰しもが自分なりの価値観に基づいて、正解を自己肯定できる世界」の実現を、僕たちは目指していたのではなかったか?

いま、日本の教育は過渡期にある。

それは、単に「知識詰込型教育」から「探究型教育」への大枠のシフトのみを意味しているわけじゃない。

オルタナティブ・スクール、ホームスクーリング、あるいは「不登校ではなく非登校」や「高校中退そして起業」など、もちろんメジャーなシフトが牽引しながらではありつつ、まなびの形が多様化している、ということを意味している。

つまりいま「色んな正解があっていい」における「正解の例」が、世の中にたくさん生まれている。冒頭の問いは、そんな「これまでにない正解の例」を生み出していくべきなんじゃないか、と僕らに投げかけているのだ。

 

その意味で、先程僕が話半分に流した問いは、考えるに痛烈だ。

「今時、探究型学習塾って安直な解決策なのではないか」

そう、これは「君は、自分で新しい正解をつくろうとすることをやめ、いまみんなが向いてる”新型正解”ジャンル=『自分で未来切り拓く系』に迎合したんだね」という指摘だったのだ。

 

もちろん、これはその「自分で未来を切り開く」探究型学習塾の存在が無価値だ、という指摘ではない。この指摘は「あなたは、あなたにとっての『正解』を本当に考え抜いたんですよね?この学習塾というのは、あなたなりに十分な問いを繰り返した結果なんですよね?」ということを言っているのだ。

そう、まなびをつくる僕たちは、問いをやめてはいけない。その問いとは、「僕たちが定義する『正解』とはなんなのか?」ということ。そして僕たちは、真剣に向き合わなければいけない。「僕たちは、生徒にこの僕らなりの『正解』を押し付けながら、まなびの場をつくっているのだ」ということ。

しかし、まなびをつくる人たちは、そこを得てして忘れてしまいがちだ。「当然これからの世の中は『自分で未来を切り拓く力が大事』だよね。常識じゃん!」などといって、

そして僕らは「自分で未来を切り拓く力を身に着ける」タイプの「新型の正解」を、安易に無思考に生み出し続け、子どもたちに押し付け続けていやしないか。

「正解がない」ということに向き合えるか。

そしてもう一つ、多様な正解が生み出される過渡期で私たちが求められているのは、「正解のない問いに向き合い続けろ」という、重たい、そして大事な要請だ。これはそして、教育に限った話ではないと僕は思う。

「新しい探究型教育に馴染めないのは、間違いか?」
「学校に馴染めないのは、間違いか?」
「ひきこもりは、間違いか?」
「無気力は、間違いか?」
「まなばないことは、間違いか?」

僕らはこうした、いまの社会で当然のように「不正解」認定されるそれぞれの問いに、まともに向き合っていかなくちゃいけない。

ひきこもりが正しい可能性があるなら、「ひきこもりが生きていけない/誤りだ」とされる社会の方が間違っていて。もし「ひきこもりが普通にいきていける世の中をつくる」ことができるなら、それが正しいソリューションなのかもしれない。

「学校に馴染めない」ことを、解決すべき「間違い」だとみなすのではなく、当然の前提だと考えるとき、必要なのは「学校に馴染めなくても、家庭や社会など、全く新しいコミュニティでまなぶことができる」環境を作り出すことが必要なのかもしれない。

あるいはもしかしたら、まなびということすら、僕らはどこかで捨て去る日が来るのかもしれない。まなばなくてはいけないのか、という問いを突き詰めたら、いや、いらないかもな、そんな結論に至ったって全くおかしくない世の中に、いま僕らはいる。

 

僕たちが受け取った問いはしかし、これからの社会への希望だ。

画一的価値観から逃れて、僕らはいま、やっとたどり着いたんだと思う。僕らがこれまで、無意識に「不正解」の烙印を押し付けてきた枠組みに、

「あれ?よく考えたら、それもいいじゃん!」

と言える社会に。

 

だから、まなびを生み出したい、と願う僕は問い続けよう。

「僕らが定義する『正解』は、いったい何なのか」
「いま、僕らが不正解だと無意識に考えていることは、本当に不正解なのか」

その問いの先できっと、僕らは未来を描くだろう。

 

 

 

 

◯ 教育飲み@福井を開催します。
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