先日、社会の中で僕らが描いてきた、そして描いてゆく「正しさ」ということについて、こんな記事を描いた。

それでも僕らは、「正しさ」の夢を描こう。

「当然これからの世の中は『自分で未来を切り拓く力が大事』だよね。常識じゃん!」などといって、

そして僕らは「自分で未来を切り拓く力を身に着ける」タイプの「新型の正解」を、安易に無思考に生み出し続け、子どもたちに押し付け続けていやしないか。

僕がこの記事で言いたかったことは、社会の過渡期、僕らは正解のない社会を追い求めようとしていたはずなのに、気づけば僕らは単なる「新型正解」幻想を創ってしまってきたんじゃないか、ということだった。

そしてもうひとつのメッセージ。それは、

「僕らがこれまで、無意識に『不正解』の烙印を押し付けてきた枠組みを問い直し、『あれ?よく考えたら、それもいいじゃん!』と言える社会にしようよ」

ということ。

そんな僕の前に、得体の知れない霧のように雲のようにぐねぐねと漂っているのが、無気力、というテーマだ。




無気力、というテーマだ。

これまで僕が出会ってきた人の中には、ものすごい無気力なひとがいる。彼らは学校と家、会社と家とを無感動に往復し、ただ日々を繰り、家ではひきこもってYoutubeやゲーム、マンガ、あるいはSNSに興じている。

もう、あえて記述するまでもない話かもしれないけれど、そのコミュニケーションすらスタンプなどの記号に取って代わられ、あるいは世の中の「いいね!」傾向に自分の容姿や嗜好を巧みに変容させ、まるで村田沙耶香が描いたコンビニ人間のように、日々を繰り返し繰り返しては、しかし中途半端な欲望をもとに茫漠と刺激を追い求めたり、めんどくさくなったりしながら、無気力な日々を送っている。

別に外に遊びに出るわけでも、購買意欲があるわけでもなし、お金もなんとはなしに溜まってゆく、困りもしない、死にもしない、やりたいことは別にない、そんなひとりの無気力人間。

そしてその人は面倒な顔で、鏡の目をして僕を見る。

「君だってほんとは、そうなんでしょう?」

僕は目を反らして、携帯アラームとgoogleカレンダーとTrelloとMessengerの波に自分から呑まれる。だいじょうぶだいじょうぶ、僕は無気力な人間じゃない。うまくやれてる。うまく自分を鼓舞して働かせることができている。ほら、今日もちゃんとSNSのあいまにメールを返し、ミーティングにいき、人と話して、よしよし、「今日もちゃんとやれてる、人間を」。

でも土日にもなれば、さっくり操り人間の糸は切れ、たちまち人間に戻った気分になって、そうそう、今週末もさむいさむい土日だから、SNSをやっていていいのだ、そうそう、ちゃんと家にいていい言い訳もある「雪すごかったから、家出るの面倒でさあ」、きっとナントカちゃんもこう返してくれる「わかるー!私も布団から出ようと思って頑張ったんだけど、寝てたら週末終わっちゃった」、そして土日が終わって、僕はまた自分をからだをアプリに預けるのだ。

どうなのだ、僕はがんばっているつもりだけど、ほんとうは。
所詮ゆとり世代の、お粗末無気力人間だったのか?

 

さあ、どうだろう。
はたして無気力は、「不正解」だろうか?

 

旧式の「メジャーな価値軸」に沿えば、たぶんきっとこれは「不正解」だ。あるいは、今の今の価値軸ですら。

ソーシャル・キャピタルなどといって、社会の中に関係性を持つことが「幸福」であり、同時に「価値」なのだ、などと言う誰かにとって、無気力でひきこもりで、関係性を形成しようとも維持しようともせず、お金2.0で提示された「価値主義」に対し真っ向から反抗するかのようなその無気力さは、到底許されない、矯正しなくてはならない存在だ。今この世は評価経済や価値主義社会へと進んでいく。大丈夫、みんな必ずこちらへ進むのだから、あなたも一緒においで。そしてソーシャル・キャピタルを有する「強い個」らしい誰かは、私に向かって言い放つ、

 

もったいなーい、もっと外に出なよー。福井県だって、おもしろいところいっぱいあるんだよー。ほら、あそこにできた喫茶店とかさ、もう行った?えー、いってないのー。マスターがすごい優しくて、お店もおしゃれで落ち着いてるし、ほんとおすすめなの。今度私と一緒に行こうよ。いま彼氏いるの?え、じゃあ素敵な人紹介してあげるよー。ちがうのちがうの、そんな遠慮しなくていいってー。私も好きでやってるんだから、別に気つかうような仲でもないし、気軽にたよってくれていいんだよー。

 

無気力な私にそれはでも、ころんと音を立てて空疎に転がっただけで、何の意味も語りかけてこない。私は無気力に、へえへえと頷くだけだ。

なんだったのか、

そして人生における無駄な経費を削減しようとする合理的経済人の私は、ふと沸き立つ違和感を拭えない。私は、ごくごく自然な本能に従っているように思える。私の「無気力性」は、果たして本当に間違いなのか?私たちの社会は無気力が「本当に間違いか」ということに、本当に真剣に向き合ってきたんだったろうか。

 

あるいはこの無気力は、私たちがずっとずっと目指してきた、
資本主義の桃源郷なのではなかったか。

 

だって思い返してもみてほしいのだ、私たちは高度経済成長期から今日に至るまで、ずっとずっと目指してきたじゃないか、私たちは猛勉強してテクノロジーを発展させ身の回りに必要なモノをひとつひとつ生み出して、電気、車、テレビ、道路、冷蔵庫、エアコン、洗濯機、電話、パソコン、携帯、そして身の回りをどんどん自動化し、AIを生み出し、そしてもうすぐシンギュラリティがやってくる、

そう、私たちが目指してきたのは、ウン十年かけてがんばって描いてきた理想は、

「私たちが何もしなくてもロボットが稼いでくれて、
好きなことをしていればいい世界」だったじゃないか。

 

私は思う、
「ほら、実現しているじゃないか。」

 

毎日漫画を読みふけり、Youtubeで延々と時間を潰し、飽きたらInstagramとtwitterとfacebookを交互に見ている私は、あの日誰かが夢見た、何もしなくたってなんとなく生きていける、理想の世界そのものじゃないか。

見て!もう勉強なんてしなくていい。調べれば分かることだけで生きていけるから。
もう仕事だってしなくていい。もうすぐベーシック・インカムが実現する。

よかった!

 

そうであれば、生まれながらにして何もしなくてよい私たちがこの無気力さを得ることになったのは、あまりに自然ななりゆき、当然の帰結、

そしてそれは、「正解」だ。

だって、これはみんなが目指してきた世界だ。お金もモノも捨てるほどちゃんとあって、関係性ですらネットを介して欲しい時につくり、いらなくなったら捨てられる。無理に不足を埋めなくたって、はじめからピースは埋まっている。刺激はないけど不安もない。挑戦はないが失敗はない。発展はないが衰退もない。よかったよかった、私たちは、先祖の皆様ががんばって高度に経済を成長させてくれたおかげで、やっとストレスのない理想の桃源郷にたどり着いたのだ、実はしかし到達してみれば、全くもっておもしろみのない、つまらない桃源郷に。

そんな無気力を目指して前進してきた社会で、ついに無気力になった、正解の私たちがうまれた。

そうか。だからこの社会はコンテンツに溢れているのだ。私たちは、正解なのだ。だから、無気力な私たちが私たちのままで幸せに生きていけるように、社会の側が環境を整えてくれるようになっている。そう、これは至極当然のことなのだ。だって、充足した私たちは、これ以上の存在になりようがないし、なる意味もないし、なる術ももたない。これから、みんなそうなっていくのだ。

Youtube、ニコニコ動画、Netflix、Spotify、Tik tok、Hulu、Amazon prime。
ほら、私たちは社会から、無気力であることを許されている。

 

さあ、無気力は、

考えれば考えるほどに、無気力であることは自然であり、妥当な選択だ。そうであるならば、この違和感は何か。ただ、旧式の価値観に引きずられているだけか。新しい無気力主義社会がやってきたことは、あるいは資本主義の自明の帰結として、紛うことなき達成なんじゃないのか。私たちは、やっとゴールを見たのだ。

そうであるならば、このまま無思考に静かに日々を繰り返し繰り返して、緩慢な死を迎えられればそれでいい。わざわざ社会の側から、私たちに求めていない気力を与えようとしなくてもよい、興味や好奇心を引き出そうとしなくてもよい、私たちを社会の中に位置づけてもらわなくてもよい、のか、

私は悩む。

 

もう一度問おう。

はたして無気力は、「不正解」だろうか?

 

 

 

 

本作で、古倉という人間を通じて描かれるのは「あちら側の世界」と「こちら側の世界」のまごうことなき断絶。
社会はあちら側の理論でできており、いくらすり寄って「マニュアル」通りに動こうと、そもそもが誤りだ。そんな結論に至る古倉を通じて、本作は現代にいる、とあるマイノリティの存在を悲痛なまでに描き出す。

古倉はあちら側=いまの私たちの社会における「通常」に対する異端として描き出されているけれど。
「あちら側のマニュアルに添えたら楽なのに、全て指示してもらえたらその通りにするのに」「私は周囲の人たちをコピーすることでできていて、周囲が変われば私は全く変わってしまう」などの古倉の内省には、「あちら側」への同調圧力をうっすらとでも違和感を持って受け止めたことがある人なら、共感を抱く人は決して少なくないはず。

その意味で、きっと私たちの多くが、自身のなかに「古倉性」を保持している。古倉の姿は、こうした「いまの社会における異端」であるこちら側、である私たちに対する、ひとつのメッセージにも思える。いるんだろ、そこにも。君も古倉じゃないか。

「あちら側」の人間だらけ、の世界で生きづらさを感じる私たちのために描かれたようにすら思える、諸刃の剣のような鋭い一作。