#30豪雪

早くもwikipediaに「平成30年豪雪」との項目が。仕事が早い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%88%9030%E5%B9%B4%E8%B1%AA%E9%9B%AA

 




#30豪雪。

2/5の夜から、福井には雪が降り続いています。2/5夜の時点でJR西日本は「旅行は見合わせてください」との通知を発表。2/6は楽しみな取材があったのですが、当然のごとく東京からこちらへ来ることが出来ずキャンセル。残念。

そして2/6の朝には、車が進まない、休校になった、会社が休みになった、雪かきで助け合いをした、家から出られない、等々。ほうぼうが雪かきに追われ、私も筋肉痛になりました。車がスタックし、主要道である国道8号では1,500台が立ち往生との報道。マフラーが詰まっていたことによる、車内での死亡事故も起きています。自衛隊派遣要請も出されました。会社や学校にいた人のなかには、帰れなくなった人もだいぶ。

新聞は届かず、2/7福井新聞は朝刊をオンライン上で無料で公開。
http://viewer.fukuishimbun.co.jp/books/viewer/app/P000003854/2018/02/07

facebookもtwitterも、タイムラインは雪の話題ばかり。#30豪雪で検索すれば、その様子がわかります。

ヤマトも来ないし、郵便も届きません。
道路は封鎖、バスもほとんど運行見合わせ。
JRも福武線もとまっています。
コンビニからモノが消えました。おにぎりもパンも届きません。
ガソリンは給油制限、そこかしこで灯油、レギュラー、ハイオクが売り切れ。
そもそも、家から出られない人も多く、
また歩いて出かけようと思っても歩道は埋まっています。

 

福井、埋まっちゃったよ。

これは一体、なんなんだろうか?

そんな、なんにもなくなった福井なはずなんだけど、

地元のスーパーにはいつもどおりお惣菜やおにぎりが並び、
パン屋にはいつもどおりパンが並び、
商店街の定食屋は雪に埋もれたまま今日も「からあげ定食 650円 10人限定」。

そして、いつもどおり全く変わらず仕事をしている人がいる。家でパソコンを開いて、メッセンジャーでやりとりし、excelをさわったり、電話をしたり、会議をしたりしているような。

私が問いたいのは、これは一体、なんなんだろうか?ということ。

 

つい昨晩、家入一真さんの「なめらかなお金がめぐる社会。」を読んでいた。

 

僕は「各自が自由に、自分の幸せを追求できる社会」をCAMPFIREで実現しようとしている。

本著ではこの根本思想をもとに、家入さん自身が、どのように「小さな経済圏」という発想にいたり、それをCAMPFIREを通じて、どのように実現しようとしているかが語られる。

この本のなかでは、ローカルかつオフラインの経済を大事にしていこう、なんて論は述べられていなくて、いかに現在の資本主義をアップデートして、全ての人が自由に挑戦できる「機会の平等」をつくるか、ということが述べられているのだけど、

その中にこんな話題がある。

ネットがもたらしたのは「民主化」である。これまでは、例えば歌手になろうと思ったら、オーディションに応募して、認められて、CDをつくり、広報し、テレビに出て、多くの視聴者に認められなくてはいけなかった。
しかしネットでは、自分で歌い、自分で録音し、自分でYoutubeにアップロードすれば、歌手になることができる。(※意訳抜粋)
得体の知れない「どこかの誰か」に奪われていたものを、明確に「自分の手元に取り戻す」。これがネットがもたらした「民主化」だ、と家入さんは言う。

そこにあるのは、中央集権、見えない誰かが集めて、見えない誰かが配るあり方ではなく、ネットワーク的に、PtoP的に、そこにいる誰かとそこにいる誰かが、勝手に繋がって新しい独自のあり方を紡いでいくようなあり方だ。

小さな経済圏で。

それはちょうど、私にとっての今日の印象と重なる。

私がこの豪雪のなかで問いたいのは、昨日、今日と福井に起きた「この麻痺」とは、一体なんなのか?ということ。

コンビニにモノはないが、地元の食べ物は、こうして今日も地元のスーパーに届く。だって、このまちで作っているのだから。
コンビニに依存している人は、コンビニへ訪れて、今日、困っただろう。なにもないから。でも、その人は知らなかったかもしれないけれど。スーパーにはいろいろあったよ。パンは届いていなかったけど、おにぎりもお惣菜もあったよ。だって、そこで作っているのだから。

そして同時に、この雪の中で会社へ向かい、たどり着けずに家へ戻って1日を終えた人がいたなかで。
会社という形式に縛られず、出社せず、しかし電話やパソコンを使って、明確な価値を生み出している人がいる。無理に会社にいかなくてもよい、こんな日に車に乗る必要はない。もっと言えば本当は、家から出なくたってよい、はずなのだ。

(もちろん、全てがそうであるべきではなくて、病院や行政、新聞、介護施設…。こんなときも、責任に真正面から向き合って戦ってくれている皆さん、本当に頭があがらない。ありがとうございます。)

 

なぜ車に乗って3時間、4時間もかけて(あるいはたどり着けない)会社に向かわなくてはならないのか?
なぜ雪が降るとコンビニからモノはなくなるのか?
この豪雪が私たちに突きつけているのは、そんな当たり前で、しかし重要な問いだ。

解は簡単だ。会社に向かわなくてはいけないのは、仕事が自分のものでないから。
雪が降るとコンビニからモノがなくなるのは、それが遠くから運ばれてくるからだ。

 

そこで改めて問いたいのだ。「仕事は与えられるもの」であり、「モノは遠くから運ばれてくる」ことは、果たして「当然なこと」で、「正しいこと」なんだろうか?

 

今回、私たちは豪雪によって、ここに改めて立ち返り、問い直す機会を得たんだ、と思っている。

仕事は、それを統括する「中央の、おおきな誰か」によってもたらされている。食は、それを統括する「中央の、おおきな誰か」によって生み出されている。私たちはいま、こうした中央集権的な経済のなかに組み込まれている。

では、もし、これから自分の会社が倒産したら?もし、遠くで食品をつくっている工場が災害にあってしまったら?そのとき「生活を与えられている」私たちは、どうなってしまうのだろう?

雪によって、私たちは気づくことになったんじゃないか。
中央集権的な経済は、こうして中央と遮断されたとき、全てを失う。食も。エネルギーも。あるいは仕事も。

(とは言いながらも少し、へんな感じもする。いま、私は労働の側面から「ITで地方の居住の束縛から逃げよう」と言っている。でも一方で、食やエネルギーの側面では「地域に足をつけて、ローカルで経済を回していこうよ」と言っている。これではまるで真逆のことを言っているように聞こえなくもない、、、)

それでも、いま私は、仕事についても、食についても、全く同じことを言っているつもりです。

 

それは、「大きな経済圏ではなく、自分の小さな経済圏をつくろう」ということ。

 

どこでも仕事ができる、労働や居住の自由。いつでもどこでもお金が稼げる自由。この自由は、労働を「大企業から与えられる」大きな経済圏の仕組みから脱したときに得られる、「自分が持っている」民主的で小さな経済圏だ。ここでは、誰かは誰かのスキルをもとに、その誰かなりのお金を稼ぐことができる。そんな小さな経済圏。

そして、それこそが私たちを自由にしていくのではないか。

一つの企業に縛られている私たちは、いつだって不安を抱えざるを得ないから。この会社がなくなったら?この業界がイノベーションで不要になったら?会社にいけなくなったら?リストラされてしまったら?そして、それが会社が私たちを支配する口実になる。

「雪だけど、ハブられたくなかったら明日も当然仕事来いよ。上司である俺は、当然近くにホテルとったからね?(…おまえも、会社の近くに泊まるんだよな?)」

そのとき、自分の経済圏を持つ人々は、堂々と自分の違和感に向き合うことができるはずだ。こんな日に、会社にいく必要はないんじゃないか?家でできる仕事をやればいいんじゃないか?うん、そうすべきだ。だから、そうしよう、と、言える自由。

 

加えて私たちは、中央に素材が集まり、中央からモノが運ばれ、中央へお金が集められていくサプライチェーンではなく、より「地域のなかで生産物とお金が回る」ようなフラットなネットワークを、もうすこし意識的に目指していくべきだと思う。それは単に”あたたかいお金、あたたかいモノ”という視点以上に、こうした災害時に、インフラとして「強い独立」を見せてくれる。
それはきっと昔から、誰かに依存して振り回されるのではなく、静かにめぐり続けるしなやかな経済。

 

このどこかがまとめる」関係性ではなくて、フラットでネットワーク的な関係性を目指す思考は同時に、前述した「労働の自由」も支えてくれるはずです。
教育の力」で、苫野一徳は教育の目的をこんな風に述べている。

教育とは、すべての人々が自由に生きられるための教養=力能を育むものである。教養=力能とは、学力と、自由の相互承認の感度のことである。 (※意訳抜粋)

「自由の相互承認」とは、単に全ての人が自由にしていい(=わがままでいていい)自由、ということではなく、「相互に、その人は自由でいていいんだ」ということを承認しあうことである。

そんな、自由の相互承認が成立する小さな経済圏、を私たちは目指すべきなのではないか。

私たちは、どこでも自由に仕事ができるような(あるいは、自分の意思で「今日、仕事にいくべきか否か」を決定できる自由があるような)あり方を作っていくべきだ。

そして、そのためには関わり合う私たち同士が、互いに「そんな自由を持ちたい」ということを認めあい、結果として、そのあり方のなかでお金がめぐりあう、そんなあり方を模索していくべきなのではないか。

 

そんな関係性が生まれたら、みんながそれぞれ自由なあり方を追求しながらも、社会にしなやかにお金がめぐっていくだろう。

どうだろう、こんなのは夢物語かしら?

 

 

先日から、少しずつスタバをやめています。丁寧にみわたしてみると、しずかで落ち着いていて、夜までやっているようなカフェが、コンセントもWiFiも通っているカフェが、実はたくさんあることに気づく。

お金の使い方は、自分の思想の表現そのもの。素敵なお店を繋いでいくのは、お金を使う私たちそのものです。であれば、私は、このカフェにお金を使いたい。私自身がここを繋いでいく主体になりたい。

そんな風に小さな自分なりの素敵を紡いでいけたら、それはとても豊かで幸せなことだろうと思うのです。

 

勝手に宣伝。これから、いやなことにいやって言うだけじゃなくて、好きなことにも好きだよって、ちゃんと伝えようと思って。
敦賀の「CHILL CAFE」、「agaru」。(敦賀は本当にいいカフェが多い…)
福井の「enzo coffee」、「Sunny Coffee」。またぜひ。

では、みなさま。どうかお気をつけて。

 

 

 

P.S. 少しでも誰かが救われますように。

どこかの誰かに感謝が届きますように。

豪雪で立ち往生の車に500人前 餃子の王将、無償で
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180207-00000078-asahi-soci

 

 

 

ビジョンから具体的なアプローチ、これからやりたいと思っていることまで、今の家入さんをまるごと(そして家入さんの声が聞こえるような気軽な文体をそのままに)詰め込んだような贅沢な一冊。

地域の魅力とはそういうところにあるわけで、「東京には負けないぞ」とか、「東京にはないこんな良さがある」とか、物差しとして東京を引き合いに出している段階でじつは東京に負けていることを多くの人は忘れがちだ。

幸せとは何かと考えたら「自分のやりたいことができる」ということなんじゃないか、と思う。だとすれば「いい社会」とは「各自が自由に、自分の幸せを追求できる社会」ということになる。

 

いいよね。オランダ。