学力って何? 点数評価に疑問(福井新聞)  
http://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/293467 

福井県は『学力日本一』ではない。『学力テスト日本一』だ

生徒を通じて課題などを見ていると痛感します。福井の教育は、とにかく大量の課題を与えて「こなす」ことを目標としているようです。

(ちなみに、今福井にいるから、福井福井と連呼していますが、これは大小あれど、地方共通の課題なようにも思えます。)




とある詰め込み教育

これは確かに一定程度の学力(ここでの学力とは、公式や単語の「知識」という意味)を保障してくれると思います。 
 
しかし、こうした教育は将来どのような結果をもたらすのか、考えこまざるを得ません。誤解を恐れずに言えば、これは「言われたことを着実に実行する」思考停止な態度をもたらす教育方針のように、私の目には映ります。重たいノルマを課し、ついてこれなければ「できない子」のレッテルを貼り、ついてくれば認めてあげるよ、という報酬体系。 
 
詰め込み教育に対する批判は私が論じるまでもありませんが、せめて宿題を増やすのであれば、それに対応できるだけの効率的・合理的な勉強のやり方を生徒たちに教えてほしい…。
単に詰め込むべき事項を伝え「さ、あとは頑張って定着させて!宿題は出しとくからさ!」。
これでは、生徒は「こなす」ことしか出来ない。 
 
例えば英語や国語の文章の読み方などを見ていても、見ていて心苦しくなるほどです。一文目から丁寧に丁寧に読み込んで翻訳したり、内容を理解したりしていった結果「時間が足りない」。宿題もテストも終わらない。

当然です。英語や国語というのは、そもそも全てを丁寧に読解することを目的としていません。全体を把握し、構造的に分割し(なんなら、法則性を見出して”いつものパターン”に落とし込んでしまって)、必要な部分だけを取り出す作業であり、それこそが(テストという側面においては、ですが)本質的です。 
 
でも、福井では

  • 「授業で一文一文解説」し、
  • 「宿題で一文一文読解」させ、
  • 「テストでは概要把握・構造化力を問う」。

違うんじゃないか。

木ばかりを見て、森を見させない教育に価値はあるか。

 
数学や物理も同様です。概要を教え、問題の解答を教えるのだけど、「問題で問われている要素」だったり、「解答の思いつき方」や「解答の書き方」は教えてくれない。「そこは、宿題の領域だ」と当然のように突き放しているけれど。 
 
数学や物理が苦手な生徒に共通しているのは「問題文を見て、いきなり答えを書き出す」ということです。ありえません。
本来、数学や物理の「解く」というプロセスは
1)問題文を見る
2)様々な方向から解答への道筋を検討する
3)問題制作者に正確に伝わるように解答を論理的に制作する

この三段階によって成立しています。
だから、数学ができる子は、問題を見たらまず、空いているスペースにとにかくメモをとっていきます。図示し、問題の意図を把握し、これまでの引き出しの中から適用できるパターンをいくつか試し、方針が見える、ここでやっと答えを書き始めることができます。

しかし教育現場では2)も、3)も教えていない。

そりゃあ、生徒は宿題に向き合い、悩むでしょう。「これ、どうやって書いたらいいんだろう?」中高にもなれば、先生はいちいち生徒の解法をよく見もせず、当たっていれば◯、間違っていれば✕。
悩みは解決されることなく「それっぽいカンジ」で暗記した公式を適用した解答が横行し、意味のない宿題は何度も繰り返され、数学も、英語も、物理も何もかも「つまらないが、公式を暗記すればある程度は点数がとれる」科目へと成りはててゆきます。

これでは「まなび」ではなく、単なる「記憶ゲーム」です。

時間の兼ね合いから、これはどうしようもない側面もありますが、その前にせめて、解き方の形式くらいはきちんと教えてあげてもよいのではないか。 
 
僕は悔しいです。

 

 

 

教育哲学者・苫野一徳氏が、これまで積み重ねられてきた歴史のうえに「教育とはなんのためにあるか」を定義した名著。

教育とは、すべての人々が自由に生きられるための教養=力能を育むもの。教養とは即ち、学力と自由の相互承認の感度のことである。(森解釈)

こうした「教育の根本的な定義」に立ち返り、学力とは何か、自由の相互承認とは何か、「よい」教育政策とは何か、などが次々に問題提起され、苫野さんの簡潔で明快な語り口でその答えが導かれています。
また、単なるゴール設定を超えて、「まなびの個別化」「まなびの協働化」「まなびのプロジェクト化」を柱とする具体的な方法論の提案にまで取り組んでいます。教育関係者は必読の一冊。