Day 5 of 10はハナレグミ。本当はクラムボンや中山うり、羊毛とおはな、predawnなどもご紹介したかったのだけど、ハナレグミでいっぱいになってしまったから、もし興味があれば聞いてみてください。
Day5 「hana-uta」/ハナレグミ
ハナレグミ。現在は解散している日本のFunkバンド・SUPER BUTTER DOGのボーカルでもあった永積タカシによるソロプロジェクト。アコースティックなアプローチを中心にすえた、山吹色に広がる自然体のサウンドと抱きしめるような歌詞が心地よく響く。
ハナレグミの傑作「家族の風景」。
大好きな「オアシス」。
今は解散してしまったが、彼が組んだ、日本ファンクバンドの雄「SUPER BUTTER DOG」もぜひ紹介しておきたい。有名なのは稀代のバラード「サヨナラCOLOR」だろうが、彼らの楽曲群は「FUNKYウーロン茶」や「犬にくわえさせろ」など、クレイジーで良質なFunkが目白押しだ。
「サヨナラCOLOR」。その上質な音楽もさることながら、その優しいフレーズで誰かの存在を承認するような、後押しするような本質を突いた歌詞を見逃すことはできないだろう。
僕をだましてもいいけど自分はもうだまさないで
サヨナラからはじまることがたくさんあるんだよ
本当のことが見えてるなら
その思いを僕に見せて
そしてこのファンキーさである。FUNKYウーロン茶のアプローチには、キーボードの表現など、P-Funkの影響も見られる。ダンサブルな「コミュニケーション・ブレイクダンス」や、レッチリのようなロックファンクさを見せる「マッケンLO」なども必聴だ。
SUPER BUTTER DOGのメンバーである池田や竹内は、福井県鯖江市の出身で、意外な縁を感じるところ。池田自身も日本史ファンクバンド「レキシ」として活動し、2018年のGW、鯖江での凱旋ライブを開催したことは記憶に新しい。
ハナレグミとは、余白だ。
一体、ハナレグミの何がそんなに魅力的なのかと問われれば、それは「余白」だ。
ハナレグミの楽曲群はKey Gを多用し、似通った進行で作曲されているものが多い。複雑なコードワークもない。しかし、だからこそ、そこには曲に、コードワークに縛られない余地が生まれる。その瞬間に偶発的に生まれる自由なコミュニケーションこそが”ハナレグミ”だと僕は思う。
ちなみに、海外にもそんなアーティストがいる。Esperenza Spaldingという。全く意味不明だと言われそうだ、笑 でも僕にとって、この二人は全く同じアーティストだ。この二人は、余白と自由の、その曖昧さを愛している。
つまり、ハナレグミという音楽は曖昧なのだ。「演奏するひと」と「聞くひと」のあいだがない。自由で柔軟で寛容な音楽なのだ。
その意味は、星野源と比較してみるとよく分かる。星野源もハナレグミも、おなじように例えば日常を歌い、僕らは共感し、その世界を愛する。
君の癖を知りたいが ひかれそうで悩むのだ
昨日苛立ち汗かいた その話を聞きたいな
―星野源「くせのうた」
星野源が描くのは、そこにあるひとつの小さな小さな日常だ。誰にも描けない、その人だけの素朴なストーリーだ。星野源っていうのは、こころがやわらかく、きゅっとなるような、まるで”映画の終わり”みたいな音楽だなと思う。
その星野源の音楽とともにある「映画みたいな」、「漫画みたいな」あるいは「詩のような」作り込まれた世界観こそが、星野源のよさだ。よさであり、そして星野源とハナレグミとの違いなんだと思う。
星野源の音楽は、ひとつの”完成された”作品だ。それも僕はもちろん大好きだけれど、でもハナレグミは同じように日常を歌っているように見えて、その「ありかた」が星野源とは全然ちがう。
何が違うのかっていえば、ハナレグミの音楽は完成されていない。余地がある、余白がある、かかわりしろがある。なんらかの「演者」と「観客」のいる鑑賞の対象ではなく、僕たちの手の届く範囲にある、友達みたいな、日常の延長線にある音楽なのだ。だから、それはいつでも一期一会で、演奏するたびに全然違うものになりうる。奏でられるたびに、その場の人の存在や空気や温度によって曲は自由に踊る。
ただ僕の横にある音楽
例えば、僕は先日の森、道、市場2018を思い出す。ハナレグミが「深呼吸」を歌ったときのことだ。
夢みた未来ってどんなだっけな
さよなら 昨日のぼくよ
見上げた空に飛行機雲…
そのとき、飛行機が空を抜けて、一筋のきれいな飛行機雲が、すんと空に形を残して「…あ、飛行機雲だ!」って、永積タカシが子どものように声を上げる。そういう柔らかくふわふわとして僕たちの日常とつながっていく音楽がハナレグミだ。
きっと彼にとって、それは音楽というより、ひとつのコミュニケーションツールなんだ、と僕は思う。ハナレグミの音楽とは、彼自身が生きたい人生のあり方、見たい景色、誰もが気軽に通り過ぎていくような「ただの幸せな日常」なのであって、表現であるずっとずっと前の部分で、それは彼にとっての「生」なんだと思う。