シェアの時代になった、そうだ。

カーシェアリングやシェアハウス、コワーキングスペースなんかは、最近あらわれた「シェア」の典型的なパターンだろうと思う。

得てして、そういった「シェア」に肯定的な人たちは、田舎移住の文脈に近いところにいることが多いような気がする。
それは田舎がかつてから、農産物・海産物の物々交換(=シェア)、育児のシェア、家族での家計のシェアといったようなシェア文化を基盤に成立しているからなんだろうか。

あるいは同時に、シェアに肯定的な人たちは、「所有しない」ことを美徳にし、必要な分だけ使うようにすればいいじゃん、みたいなMOTTAINAI&エコロジーなスタイルともほぼ重なりあう集団だと感じる。

シェアの流れはほぼ確実にこれからも進むだろう。それは、大衆がシェア文化に迎合するという意味ではなくて、
私たちが選べるスタイルが増えるという意味だ。いわゆる「世の中の多様化」とかいうやつ。

 

さて、つい先日友人とLINEで話していて、はたと疑問を覚えた。

ずっとシェア文化は、資本主義に対立する考え方であるような気がしていた。
なぜなら、シェア文化と対立する個人主義(事物を全て誰かの所有物として捉える)をもたらしたのが資本主義だからである。
資本主義は、個人に資産をもたらした。結果として、資産が「誰のものか」を明らかにする必要性が高まり、
それによって個人主義が成立した、というのはどこで聞いた話だったか、

でも。シェア文化と資本主義は、対立していないのではないか?と感じたのである。
何がって、資本主義は効率性を重視することでコストを削減してきたわけだけれど、
それというのは、法人格という人格を通じて、リソースを社員で分配する、正にシェアの考え方ではなかったか?

例えば、事務処理は一人一人でやるのがめんどいから、事務員が一気にExcelで処理する。
例えば、一人一人で大型機械を購入するのはお金もリスクも大きいから、会社全体で購入する。
それって正に、シェアの考えかたではなかったか?

 

シェアの時代!などと息巻いているロハスな人たちが、
「いや、チェーン店はきらいでさ」とか「いまどき大企業で働くなんてダサいんじゃない?」
などと言っているのは、それはつまり自己否定であって、わりと滑稽な話なのかもしれない。

 

…なんでこんなことが起こっているんだろう?

 

ちなみに宣伝だけれど、シェアのことを語るならこれは常識本。
これからのビジネスとしてもいい洞察があるはず。ぜひ。

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