
1/8(月)朝日新聞に掲載していただきました。
「正解」に縛られない。
「新聞」という場で、これまで取り上げられにくかった森のようなあり方や価値観を取り上げてもらえること自体が、新しい流れを象徴しているような気がします。
掲載いただいた箇所を引用します。
「生きることと働くことはグラデーションだ」と実感した。都会のように、オンがオフを侵食するでもない。決まっていた教育団体への転職をやめ、県内で小中高校生向けに対話や探究を重視する塾を営む。
「自分で決めることが増え、本当にやりたいことかを自問するようになった」。すると「日本のために」「稼げ」といった「社会の声」を自分の思いだと錯覚していたと気づいたという。
社会は、いとも簡単に人々に「やるべきこと」「あるべき姿」を押し付けてきます。そして、私たち自身もあまりに無垢に無意識に、それを受け入れてしまう。
例えば、「高校を出たら、大学へ行き、卒業したら新卒で会社に入る」という文化を、私たちはいつ「押し付けられ、受け入れ」たのでしょうか?
この文化は「必ずそうすべきこと」ではないにも関わらず、当然のこととして社会に、そして私たちに共有され、私たちはそれに一切疑いもせずに(就活はいやだったけれど)受け入れて、社会人になっていったのでした。
これと全く同じ構造で、社会は無邪気に私たちの未来を縛ってゆきます。
「男の子だから、青色の服を…」「論理的に考えるのが得意だから、理系になったらいいよ…」「頭がいいから、将来は医者に…」「仮想通貨に投資すれば、儲かるだろう…」「東大に入ったんだから、教師になんて…」
安易に受入れてしまいがちだけれど、これは「自分でない人の声」に過ぎない。私たちは、どんなに時間をかけても、丁寧に自分自身と向き合い、「自分自身の声」にもとづいて行動するべきだ、と私は考えています。
逃走しているのはだれか。
今回の特集のテーマは「逃走」。今の私を、今の日本社会では「逃走」と称するようです。確かに私は、「日本社会で、ここ50年くらいの間でメジャーとされていた生き方」に対して逃走し(あるいは闘争し)ているのかもしれない。
でも私が思うのは、「逃走しているのはどちらなのか?」ということ。
自分自身と向き合うことから逃走し、今の自分の身の回りで「ふつう」だと思われていることを見つめ直すことから逃走し。その逃走の果てにあるのは、一体どんな人生なんでしょう?
その逃走ばかりの人生に、意味はあるか?
もし何か感じるところがあったなら。ぜひ、この記事を読んでほしいです。とても大事な記事です。
そしてぜひ、改めて見つめ直してほしいのです。あなたの問題意識は、あなたが見つめている未来は、本当に「あなたにとって」大事なことなのか、ということ。