お久しぶりです。たらたら書きます。
最近思っていることがあって、
それは、インターネットがもっとアナログであったらいいなということ。
ここで言っているアナログっていうのはつまり、
辞書で探した言葉の隣の文字がエッチな言葉で、それを読みふけってしまう瞬間だったりとか、
学校に通学路を通らずに通ってみたりとか(俺は基本的に好奇心がおもむいているので、小学校、中学校、高校と、家から学校へ行く道のりのほぼ全ての道を行き尽くしたと思う。家と家の間の謎の道や、塀を通ってしか行けないところ、なんかを含め。高校生になっても(大学生になっても)、こんな道が本当に好きだった。誰も知らない、誰の物語にもならない最高の冒険がそこにはある。と勝手に思ってる…)
資格の本を買いにブックオフに行ったのに気づいたら無駄に自己啓発書やどマイナーなマンガを買っている瞬間、
現実世界というのはそういうものだとおもう。
つまり、「何かをする」と、「その何かでないことをする」とは紙一重というか、
そもそも厳密にはわかれていなくて、だいぶ重なっているようなものなんだとおもう。
たぶん言葉足らずなのでもう少し説明すると、
何かをしようとしたとき、いつでもその隣に、それじゃないことをしてしまう可能性が無限に横たわっていて、
それこそがアナログな現実世界らしさなんだと思う。
何かをしたいから何かをするのだけど、
何かをしたい時に、その何かでないことをしたくないなんてことはないじゃない。
(僕は軽度のADHDなので、とりわけそう感じるところも多いと思う)
なのに、今のオンラインの世界は実に禁欲的に、
誰かの「こうしたい」と思う欲望をターゲットにして、
「じゃあこの情報がほしいんですよね!!」と一直線に、惑わされずに、迷わずにたどり着くようになっている。
「あれ?このサイトってなんのために作られたんだ?」→コンセプトをどうぞ
「このお店に行きたいなあ」→アクセスをどうぞ
「この商品ってみんなはどんな風に思ったんだろう?」→レビューをどうぞ
てな。
そしてそこに、それ以外のことをする(それ以外の情報と偶然出会う)余地はない。
こんな。
こんなつまらないことはない。
ネットのサイトは、完全にそのサイトを作った誰かの設計思想の元に、実にイデアに近い形で実現されている。
そしてそうであるがゆえに、そこには「予期しない何か」が起こる可能性はほとんどない。
現実世界には、統一された世界観の中で構成された場所なんてありえない。
例えば、最高におしゃれな建築家が建てた、その家だけ見たら世界観もサイコーだし、おしゃれで、もうサイコーみたいな感じの家があったとする。
それでも、その家っていうのは、家のまわりの環境まで含めてその家なわけじゃん。
例えば、窓の向こうに超ダサい家がどうしても見え隠れする、それも含めて「あ、チョットカワイイ」みたいな。
(最高の建築家は外部環境まで考慮して設計するもんだけども)
ね。
ちなみにいいなと思うサイトとかもあって、
例えばwikiって、すごくイイよね…。
みんなも経験があると思うのよ。
マイケル・ジャクソンのことに興味を持って読んでいたはずなのに、
気づいたら2・26事件の項目を読んでいるみたいな
いや、この例は適当だけど
えっどうやってそこ辿り着いたの?
みたいな瞬間あるじゃん。
たぶんさ、そうやって人っておもしろくなっていくんだと思うんだよね。
なのに最近は、現実世界ですらそういう無限の可能性を排除しようとする傾向がある。
何よりも感じていることは、この記事にかいてある。(→東京には何もない、という話)
公園のルールとか、柵で囲われた林とか、塀で囲われた人んちの庭とかさ。
ここではこうしちゃいけない、ここから先は入っちゃいけない、ここは誰かの土地だ、だのなんだの、
不動産関係の法律なんかも最近は特に思っていて、
別に建築法なんてどうでもいいだろ。
俺が建てたいんだから建てさせろよって話じゃん。
地方だってそういうことがたくさんあるでしょ。
何より「集団登校」。あれはなんだよ、むかつくなあ。宗教かなんかか?
安全はいいよ。安全は確かに何より大事だって言うかもしれない。
でも、集団登校によって結局みなさんの子どもは、視野の狭い何も自分から動くことのできない(誰かがいないと学校にも向かうことができない)大人になって、つまりなんのリスクもとらず与えられた選択肢から選ぶ大人として「まあ大体人生ってこんなもんだよな」みたいなことを思って死んでいくように育つわけ、それであんたの子どもは生きてる意味があったのか?ってこと。
(何の話をしていたか一応思い出しておくと、現代は「何か」の隣の無限の可能性を排除されがちだという話)
もし俺がその当事者であったなら、多少殺されるリスクがあろうと、殺されたらそんときはそんとき、自由に勝手に視野を広げ、ひとんちの塀を通って学校へ向かい、その途中で猫と出会い、カエルと出会い、かたつむりと出会い、うおおすげえとか言いながら、ああ世界はこんなに広いんだ、かたつむりはにんじんを食わせるとにんじん色のうんこをするんだ、塀を通ってるとうるせえおじちゃんよりはまったりしてる優しそうなおばちゃんの方が多いな、そうやって視野を好奇心にまかせてぐいぐいぐいぐい広げては、おもしろいことに出会って、ああ、これやってみてえ、そしてその時に、「ああでも、こんな規制があるからできないな」とか「みんなもこうしてるから俺もこうしておこう」とかって思うんじゃなくて、「ああこれやってみてえ〜!!!!やる!!やるやるやる〜!!あ、でもこういう規制があるのかー、『どうやって変えられるんだろう?』」そんな人生を送りたいと思うよ。俺だったらね。
いやいや、何を集団登校くらいで大げさな、と思いますか?
俺はそうは思わない。だって、集団登校は単なる一例にすぎない。例えば、「包丁を持たせない」とか、「危ないからそっち行っちゃダメ!!」とか「そんな人と一緒にいちゃダメ!!」みたいなのはわかりやすい例だし、そもそも学校っていうシステム自体だってそうだろ。受験や就活っていう、「誰もが通ります」なんて顔をした嘘、あれだってそうだろ。そこにはほんとはそうでないお隣さんがいっぱいいたはずだろ?
ということで話を戻しますが、
最近不満に思っていることがあって。
具体的には、自分のブログを作りたいと思った時に、
もっと俺らしいといいなあなんて思ったんですよね。
つまり、なんか大事そうな話をしていたのに突然話が飛んで謎のテンションで話し始めたりとかさ、するじゃん。おれ。
俺のブログがそうでなくて俺のブログと言えるのかというか、
なんか俺のブログを読んで「すごくまじめな人だなあ!!」と思う人が多いんだよね。
いや、そうなんだけど。
俺は超真面目な一面もたぶんに持ち合わせているんだけど、
逆に言えば、いまのWordpressの既製テーマじゃ、俺は俺の真面目なほうの一面しか表現することができない。
俺の(良質な)真面目でない部分っていうのはもちろん文章にすることで思想上でも表現できないこともないんだけど(今日の記事なんかはその最たる例というか)、でもそれって言葉で表そうとするのは馬鹿らしいことで、実際に俺と話している時なんかに思うような、非言語的な部分に多くが現れてくると思うのね。
ブログを読んでいるときに、そういう感じでありたい。
なんかわちゃわちゃしてんなあとか、無駄に楽しそうだなあとか、
そういう感じが伝わってったらいいなあ…と思う。
つまり、ある記事を書いている
ふわ
ふわ
と俺の頭の中に斜めうえによぎっている
もう果てしない気づきや思いがたくさんある。
それを、誰かが俺の記事を読んでいる時に
ふわ
うわなんだこれ、うける読んでみよう
みたいな、あるいは
俺の記事が表示されている、そのまわりに
無駄になんか俺のInstagramの写真が(俺は写真もわりとうまい)
ぽわ
と並んでいて、
えっなんか…イイ…
みたいな感じとか、
てか別に全部俺のものである必要は全然なくて、
俺がFBでシェアした割とサイコーな記事や商品
(例えば最近で言えば、空気中から水を作るやつとか、
水中でエラ呼吸できる器具なんかはまじでぶっ飛んでてサイコーだと思った
→ワクワクまとめ)
なんかが、記事を読んでる時に
ひらひら
と脇の方に流れてきたら
えーなにそれ超おもしれ〜〜〜!!!!!!!!!
って、なるじゃん?普通に考えてなるじゃん?
なんかそういう謎の広がり、
もっと現実世界の俺といるような
圧力と熱量がぐいぐいぐいぐい迫ってくるみたいな、
いや時にはだらだらだらだらだらだらしてるような
見る人によって全然見え方が違ったり、
いろんな情報を取り出せたり、
ていうか振り返ればむしろ隣の家の窓の向こうの爺ちゃんが猫を撫でているシーンが目に入ったみたいな
なんかインターネットがそんな風になってったらいいじゃん?
というわけで、そんなサービスを2つご紹介
http://www.webydo.com/
イラレみたいにウェブサイトが作れると俺の中で話題。
http://ja.wix.com/
WIXはすごいよほんと。
で一番ヤバいのがさ、
俺、そういうの、作れるなあって思ったらなんか
楽しくなっちゃうんだよね、ね、、、
もりまとめ
http://skafunkluv.wix.com/morimatome
、、、途中で作るの飽きてもうた。
またよろしくね。