山形にいたころは、東京っていっぱい遊ぶ場所があって、いいなあと思ってたんだけど。
実際に来てみると、東京ってあんまり何もないなあって、思うことが時々ある。

東京って、遊ぶ「結果」はたくさんあるんだよね。
電車でぷらっと行けば、
街中にはオシャレな雑貨屋、居酒屋、カフェがあるし、おしゃれな服が売っている店もたくさんある。
謎解きもできれば、映画もあるし、ヨガやネイルも好みに応じて好きなようにえらべる。
案外近くに自然のあふれる公園もあるし、歴史のある街並みもあるし、展覧会とかもたくさん開かれている。
だから、「あ~なんかしたいな」と思った時には
きっと困らないところなんだけど。

山形には何もない。
(まだ社会人になってから山形に住んだことはないけど)。
最近はおしゃれなカフェや、雑貨屋やセレクトショップも増えてきたみたい。
それでも、誰も自然のあふれる公園には(時々しか)いかないし、歴史のある街並みはないし、
展覧会はなくもないくらい?

そういえば、こないだ、これは鯖江の話だけど、
「どこに遊びにいくの?」ってゆるい移住仲間が聞いたら
若い女性が「遊び、、、遊び、、、???」
というような顔をした。
きっと山形もそう変わりはないんだろうと思う。

遊ぶっていったら、
親戚のいとこと遊んできた、とか、つぶれたショッピングセンターの駐車場で花火をした、とか、
コンビニの駐車場で飲み会をした、とか、だれかんちに集まった、とかとか、
時には、家の前でBBQをしたり、河原で芋煮会をしたり、そういった
田舎の遊びにそんなに特別なカタチはたぶんあんまりない。

そう、結果が少ない山形と違って、東京はたくさん結果がある。
そうなんだけど、それでも僕は東京にはなにもないなあ、と思う。
僕は、東京で遊んでいるとき、「俺はいま何をしているんだろう?」と思う。
僕たちは東京で、ただ結果を「選んで」「受け取っている」だけなんじゃないかな、と思う、
そう、東京には自由にプロセスを作り出す余地がない。予期しないことが起きる余地がない。
だから東京にはなにもないなあ、と思う。

なんとなくそれを思ったのが、東京で公園にいるときで。
オシャレにデザインされた建物がある、安全でいられるフェンスとかがある、
誰かがコーヒーを提供してくれる、かわりに
「開園時間は何時~何時」「木に登ってはいけません」「ここから先は芝生の養生中」
「花火は禁止」「演奏は禁止」「スケートボードは禁止」
とかとか、ずいぶんとルールの多いこと。
山形だったらきっと、そこに特別な体験はなにもないけど、
みんなは自由にそれを使っている、
カップルは夜中にこっそり訪れていちゃいちゃしているし、子どもは木に登っているし、
ある日は誰かが花火をしている、体験は自由だ。

翻って考えてみれば、東京での体験はデザインされ尽くしていて、どれを選ぶかに過ぎないんだなあ、と思った。
例えばそうだなあ、新宿へ遊びに行くとする。
お昼はBowl Cafeでワンプレートランチを食べる。
そのあとバルト9で映画を見て、アナログカフェでお茶したあと、
伊勢丹とマルイを回ってイーグルスでウィスキーを傾ける。

どうかなあ。決まった名詞を選んで並べていけば、なんとなくそれっぽく過ごしたように見えるんだよなあ。
僕らは名詞のなかだけで遊んでいるわけじゃない。それとそれとの間って無限のプロセスからできている。
でも、東京にいると「結果」を選んでいくスタンプラリーのような遊び方を強制されてしまいがち。
これは新宿に遊びにいく、っていう街のレベルでみたけど、
展覧会とか、謎解きとか、あるいはショッピングとかご飯を食べるとか、そういうものについても、
大概のレベルで僕らの行動はデザインされ尽くしていて、無思考に僕たちは
受け取っているだけで楽しむことができてしまう。

山形で河原で遊ぶとする。
結果は「河原に行った」ただそれだけなんだけど、
お昼は持参したサンドイッチでごはんを食べる、そしたらハチが飛んできて大騒ぎをする、
そのあと川に入って遊ぶ、誰かが川底のぬめりで滑って転んだ、
寒くなって出る、そのあと河原でたき火をしながらあったまった、
誰かが持ってきてたギターで盛り上がった、歌が下手だなあ、
疲れたねそろそろ帰るかあ、友人が切り盛りするバーへいって酒を飲む、
今日は疲れてるからアルコール薄目で。オッケー、アルコール分安くしとくわ。笑

そこに決まった名詞は与えられていなくって、
そのとき、そのときで記憶にも残らないような、ちょっとした、だれも予想していなかった、
けどなんとなく偶然生まれたプロセスが繋がっているだけなんだよなあ。
同じ「河原にいく」でも、行くたびに何が起きるかはわからなくって、
常にいっぱいの可能性がひらけている。

別にそれがいいとか悪いとかじゃなくって、
東京はきちんと「結果」として、適切に計画された上質な体験ができるんだから、それはそれで素敵なことだし、
東京だって河原まで行けば同じように過ごせるんだから、
やっぱり東京のほうがいいじゃないかって言われたらそれまでなんだけど。
東京の人が「そこ行って何するの?何かあんの?」って言うとき、なんとなく少し悲しい気持ちになる。

東京を歩いていて、
このビル登れんじゃね?これ登って行ったらどこまでいけるんだろう!
ここから屋根に出れるなあ、これたどっていったらどこまでもいけそうだなあ!、と思う。
そしてあんまりそういうワクワクやドキドキは、東京で持つには不向きな感情だなあ、と時々思う。

 

———————————————




ほかの記事

旅行の目的地は、「場所」 から「人」に変わりつつある。
工場見学企画して、専用の担当者をつけて、マニュアル通りに「ここが製造室です〜」
とかって説明されても、そんなんまじどうでもいいわ、見ための話を聞きたいんじゃねんだよ、と思うわ。
俺はただ例えば職人なら職人その人の、その人を主語にした「私はここで、こういう思いで」っていう話を聞きたい。

東大でまちづくりを学んだけれど、「まちづくり」が嫌いなひとの話
まちづくりの施策、そのどこにも、
「まちのひと」のためになるような施策はないように僕には見える。
そんな「まちづくり」はきらいだ、と僕は思う。

やりたいことなんかないけど、しあわせでいたい人の話
今日は、誰かが幸せになればいいなあ、と思って記事を書きました。
やりたいことってなんだ!!!と思っているひとと、
教育や就活についてなにか感じているひとと、
目標を持て!とか「なんでやらないの?」とかいう、うるさい人たちに
読んで欲しいなあ
と思っています。